2010年4月16日(本部長通信894)
道場訓(5)
「我々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざること」
神仏を尊ぶということは、神仏と共にある人物を目指す事なのです。神仏を尊べば当然神仏が共にあって天運がついてくるのであり、天運を動かす人物として顕現でき周辺に連結させるということなのです。天運を、謙虚になって周辺に連結させて初めて極真魂が生きるのです。
言い換えれば、自分たちが神仏を尊ぶということは、神仏のような心を抱いて、極真空手で培ってきた心技体を道場生に平等に分けて上げることができる基となるという事です。ある意味で神仏の代身のごとく、自ら培ってきた良き内容を惜しげもなく、みな等しく皆さんにあげるのです。それは、美徳として当然映っていくことなのです。
というのも、空手道とは、ある意味で戦い方を学ぶのです。もし背後に神仏がなければ、只の暴力を学ぶことに等しく、無頼漢を作ってしまうだけなのです。体を持て余す不良グループを育成しよう等とは考えもしないことです。世間はジグザグに上がったり下がったり込み入った人間関係で苦慮しています。良き伝統と文化が生まれにくいのです。私たちが、神仏という背景を持っている事は、ありがたいのです。
その意味では、どのような事があっても、本来の武道を心がけ、神仏を汚すことはしてはいけないということなのです。神仏を汚すことは、すなわち自分自身を汚すことになるのです。極真魂というひとつの精神文化を完成するというと事になるのです。よく母親にお天道様いつも見ているから、悪いことをしては駄目だよと言われたものです。
さらに、自分達が生きていけるのは、あくまで我々のご先祖様が時代と共に築き上げてくれた最も大きな財産であり、先祖を大切に思う気持ちを忘れてはいけないのです。私が生まれてきた背景を少し考えてみました。私の両親がいて、10代遡ってみると、私が生まれるために、両親そして祖父母と実に1000人の人が関わっているのです。当然20代遡ることも考えました。そうすると百万人の人が関わっているのです。先祖の一瞬のズレが私を誕生させない事になるのです。
奇跡で生まれてきた私たちであることを忘れることなく、生まれてきたからには特別な役割があると確信しながら極真の道を全うしたいものです。