2010年4月13日(本部長通信891)

道場訓(2)

「我々は武の神髄を極め機に発し感に敏なること」
ここで言う武とは極真空手道であり、武道とは人間としてのすべての人間力を高める為に命がけで望まなければならない修練であり、常にその限界を目指し、身心を奮い立たせ、自分の心と環境の動きに対してすばやく反応することが出来なければならないのです。
武の神髄とは、私たちにとっては、大山総裁の手本としますから、師が歩んだ極致なのです。私たちは、修行を白帯から始めます。無になって大山総裁を追いかけるのです。有段者になり、さらに師を追い求めていく、努力がこの二番目の道場訓に秘められているのです。
極真会館を受け入れ、自らが修行の原点に立っていこうとするときに、絶えず意識する内容なのです。武の神髄は、私たちにとって見本とする大山総裁の過去に散りばめられているのです。この師を標準として、毎日のように努力しなければならないのです。これは観念的な内容ではないのです。「機に発し感に敏なる」ということは、実際の環境問題に素早く対応しなさいということなのです。修行を行ううえで、目前の問題なのです。
繰り返しますが、極真空手で学ぶ武道とは、人間としての全ての人格の総合力を高めることであり、命がけで望まなければならない修行です。常に大山総裁が到達した極限を目指し、心の中を奮い立たせ、自分の心と周りの環境の動きに対してすばやく反応することが出来なければならないということにもなるのです。
 これらのことは、自然現象にも当てはまるのです。空気で言うならば、低気圧圏に空気が薄くなれば、高気圧圏から空気が流れ出て満たしてくれるようなことであり、水は、高いところにあるとき、下に窪みがあるならば、自動的に流れて埋め尽くしてくれるのです。要するにバランスを言っているのです。
 世の中は、あまりにも「武の神髄」とかけ離れているのです。その良い例がエイズ問題に象徴される性の乱れと麻薬の乱用ということにもなります。人間の狂乱の世界で天罰が下ることにもなるのです。ですから、心身を「武の神髄」に向けて訓練しなければならないのです。
 付け加えるならば、世の中では良心を騙しながら、体の言うとおりにあらゆる詐欺、謀略、中傷をして、お金を集めたりする人がいます。このようにしてお金を集めたならば、かえってお金がその人を打つのです。審判の棍棒となるのです。