2010年4月12日(本部長通信890)

道場訓(1)

 道場訓は、作家の吉川英二が大山総裁に送ってくれた内容です。極真の精神に則って修行していく上で欠かせない道場の人生指標なのです。そこで、その価値と意義に関して説明していこうと思います。この内容は「道場生の誓い」なのです。極真会館入門における個人が基本単位として、実践すべき生き様ということになります。
 道場に入門した時から、道場生が個人の惰性の仮面を脱ぎ、道を求める求道者として出発するのです。子々孫々まで唱え続ける事が出来る、道場生としての表題なのです。個人として極真会館で修行して、いずれは家庭を守っていくための基本事項であると思って良いのです。
 その意味では、「道場訓」は、道場生が絶対レベルとして目標としなければならない設定なのです。要するに、道場生として、道を極めて行く上で、必然的な精神として下さった言葉なのです。ある意味で、修行者としての憲法なのです。
 したがって、「道場訓」を唱和する場合には、何よりもまず道場生の身心を一致させ、一心、一体、一念の境地まで辿り着かなければならないのです。「道場訓」に対して、自分の良心に従い、屈服していく最低限度の人格基準が前提とならなければならないのです。これから、人々が認める尊敬される人格者を目指さなければならないのです。
 このように、極真会館全体を指導する個人としての位置に立てるように努力するのです。その個人は、極真の伝統を背負っていく、最高の方向性とし、極めて複雑な現実を背負っていくのです。ある意味で、極真魂を獲得する「道しるべ」ということになるのです。
 この「道場訓」で人生の連勝記録を樹立してください。人生の骨として、心臓として中心に据えて、人生を正しく極真魂と連結させる橋なのです。さらに言うならば、エネルギー源で、こよなく武道を愛し続けて行くことになるのです。世の中のどのような力や勢力とも比較にならない権勢として現れるようになるのです。誰が道場訓に従っていく人生を妨げる事が出来るでしょうか。

「我々は心身を錬磨し確固不抜の神技を極めること」
 心身を錬磨するならば、個人がしっかりするというのです。それは、自分が極めなければならないのです。私が築かなければならないのです。自分が人と和して環境と調和するようになるのです。何故、「錬磨」という言葉を使ったのでしょうか。自分が心身を磨かなければならないのです。ただそのままで成せるのではないのです。磨いて自分を180度変えなければならないのです。「鉄は熱いうちに打て」とか、「苦労は若い時に買ってでもしなさい」という理由はそこにあるのです。
 これが道場生として最初の誓いであり、出発なのです。そのように道場訓は厳粛なのです。怠惰になって引っ掛かってはならないのです。道場で稽古し、しっかりとした意識を持たなければならないのです。そして全ては、師範・先輩との共同責任となるのです。
 さらに、「神技」を極めるという事なのです。それは何か、神がかり的な内容を極めるということではなく、技術的に優れるのは当然のことながら、道場生として誰からも認められる人間性を築きあげなさいという事なのです。「万物の霊長」と言われる人間が、良き人格を創造して素晴らしいい人間を目指すというそのこと自体が「神技」なのです。
 ところで、「神技」ということを、個人ではなく、世界という次元で考えてみたいと思います。今先進国と発展途上国とがあるのです。先進国は、物質的にも豊かで、余っていて捨てている現状です。しかし、発展途上国はすべての物が不足しているのです。それゆえ、飢えて死んでいっています。一年に二千万人以上の人が餓死しているのです。これが地球上のことなのです。「神技」というレベルとはかけ離れていると言うことは一目瞭然です。
 世界の自然な運動形態を破壊しているのが先進諸国当事になるのです。このままでは、どうしようもないのです。それゆえ、「神技」なる神業的システムが世界にとって必要であろうと考えるのは私ばかりでしょうか。考えさせられます。