2010年4月9日(本部長通信887)

実存する極真魂

 極真魂は尊厳な魂です。精神と肉体を一体化させるのです。一つの方法として、稽古に打ち込まなければ、精神と肉体は別れるのであり、健全な精神態度を持つ事が出来ないのです。一日、あるいは一週間生活して、乱れた自分であったとするならば、稽古で一致化させるようにするのです。清々しい身心ともどもの感動が待ち受けているのです。
 ほとんどの人は極真魂のなんたるかは知らないのです。稽古をしてみて初めて分かる事です。しかし、考えてみてください。どれだけ、人生に役立つ魂であるかが、分かったならば、自分の全ての財産をつぎ込んでも獲得したい魂なのです。
 稽古で感じる心情の世界は、どの部分を探して擬視しても、自分に役立つものばかりです。世の中で自分を訓練してくれるものが、確かにあるでしょうが、極真空手を実践している道場生にとって、稽古に比べたら何でもないのです。稽古の一角にもならないのです。
 ですから、いろいろと余暇を過ごそうとは思わないのです。私に言わせれば、世の中の色々な事は、私の目的にかなっていない事が多いので、興味を持たないのです。極真空手に触れる以前は、ただ父母と一緒に過程で暮らし、生活の中心は、どのように食べ、どのように暮らすかでした。それゆえ、一番重要な事を衣食住に力点を置いていたのです。
 つまり、空手に出会う前の私は、どのように住むかという問題、どのように食べるかという問題、どのように装って暮らすかという問題、これが中心だった事は間違いないのです。もちろんそこには、人間関係において人倫道徳があり、向上心もあり、互いに発展し、互いに喜び合える内容があります。
 しかし、分析してみると、個人で生活基準や社会に対する考え方がみな違うのです。暮らしている生活の指標として立てるべき人倫道徳の規準に大きな差があるのです。ある意味で収拾される事はないのです。
 そのような意味では、極真魂は、稽古という体験過程を経て、世界の人達が同じ基盤を形成できるし、自分の天意を見つめていける本心基準を見出す事が出来るのです。専門に学べるところが道場ということになるのです。
 師範は、極真会館で稽古を続けてきました。一年でもなく、十年でもなく、四十年近い歳月です。自分の人生を絶えず支え続けた原動力になっているのです。そのような体験ができるのが極真会館での稽古であり、極真魂なのです。