2010年4月1日(本部長通信879)

悪い思いを起こすな

 「心はまっすぐに」という事を最大限の人生のテーマにすべきです。電信柱がまっすぐに立っている姿を見ると、一直線に立っているといいます。当たり前のことです。そこで、心がまっすぐであるということも同様なことが言えるのです。
 さらに、人は四足で歩くのでではなく、立って歩いているのです。まっすぐに立って歩いているのです。そこで垂直になっているということなのです。人間が垂直に立って歩けるのですから、こじつけのようですが、人の心も垂直にならなければならないと思うのです。
 自分の歩く姿が垂直ですし、心も垂直でしたら、共鳴するのです。心身を共鳴させるのです。心が響き渡る体になるのです。心身とも、垂直から引いてくる力と、つまり歩く方向が水平ですから、動くとき力が、垂直・水平という関係で、遠心力と求心力をもたらし、回る力を維持しながら、均衡に保つのです。
 このように、心がまっすぐだと言うことは、純粋に私は私であると感じることができるのだと思うのです。心が曲がっていると、水平・垂直のラインが崩れ、方向が微妙に変化します。
 そこで、曲がった方向性から生じることは、人がやってはいけない罪を犯してしまうのです。さらに、思考も消極的になります。そのような事が世の中にたくさんあるのです。それゆえに、人は刑務所に隔離されなければならなくなり、心がまっすぐに更生されるようになるまで期間が必要になるのです。
 師範の場合、遠心力と求心力が一定に保たれるというよりも、必死になって歩むのです。つまり、特攻隊精神に似ているのです。「死なんとするものは生き」という表現そのものなのです。死ぬ目的を生きるためにしているのです。
 どこにいって死のうかと考えます。やはり犬死はしたくないのです。師範という立場で死のうと思うのです。極真会館を背負って死を決するのです。青春時代を共にした一つしかない極真空手で死ぬのです。これが最高なのです。極真空手の真ん中で、旗をひるがえしながら一生終えるのです。そうしたら、垂直・水平が遠心力をもたらし、充実した歩みとして生きることができるのです。