2010年3月23日(本部長通信869)

空を飛びたい

 人は生まれるとき、母の子宮の水の中から生まれてきます。赤ん坊がお母さんの胎内にいるとき、揚水に浮いているのです。その中で暮らしていくために、養分を母の胎内から送り込まなければならないのでへその尾がついているのです。最初に母と連結されたホースがついているのです。
 師範のお腹の真ん中に確かにへそがあるのです。確かに母と結ばれていた証拠なのです。そこから栄養が送られて供給されていたことなのです。私が赤ん坊の時、口がへそということになるのです。
 母親から生まれてきて、実子として育っていくのです。そこで適当なことを考えるのですが、魚のように水で覆われた体内で暮らす時期が人間にあり、陸上で暮らしている、生まれてからの生活があるのですから、鳥のように飛んでいる時代があってもよいのではないかと思うのです。
 師範は色々な国に航空機に乗って移動するときに、ふと「自分で飛べたらな」と少年のような気持ちになります。空を飛んでいるとしたら地上最大の注目の的になるのではないかと想像するのです。
 ふと自然界に目を移しますと、トンボの卵ははじめ幼虫になって、水の中で泳ぎ回ります。そして、陸地に上がってきてしばらくの間、這い回ります。その次は脱皮してひたすら空を飛ぶのです。水や陸地で這い回っていたときに、食べるだろう思いもしなかった虫を捕まえて食べるのです。トンボは空を自分の舞台として飛び回るのです。
 昆虫も水と陸地と食空中で暮らすのに、万物の霊長といわれる人間に羽がないのです。それでも空を飛びたいという気持ちは募るのです。師範は考えます。ひょっとしたら、第一の人生が母の胎内で、第二の人生が今の生活で、第三の生活があって死んでから空を飛び回るのではないかという発想です。
 確かに、火の玉といって死んだ人の魂が空中をふわふわ浮いている怪談話があります。第三の人生に出発するのが死ぬ瞬間であるかもしれないという期待感が少しあるのです。歳を取ると死ぬという意味を少し高貴にしたいという思いがあるし、空を飛びたいという願望がそこまで意識してしまいます。それで、その後空を飛べるのではないかという師範の浅はかな考えを書いてしまいました。