2010年3月20日(本部長通信866)
指導者の心得
教室で子供たちを指導するということは、道場生一人一人に技術を伝授するだけでなく、愛情の全てを投入することなのです。最初に挨拶をした後に、指導者が心がけなければならないことは、道場生の顔の表情を垣間見て、心の状態を把握する事からなのです。把握するに当たり、指導者は、太陽のごとく、愛情の発行体として道場生を照らす事なのです。
指導に入るということは、気象現象例えるならば、高気圧として全体を暖かくする雰囲気を醸し出し、低気圧部分の課題を抱える道場生に限りなく投入するということなのです。そこで必要となってくることは、指導者自身の自家発電なのです。自分自身の心をどのように高めていくかが相当努力のいることなのです。指導とは愛情の表現なのです。
師範の場合、座禅を組むとか、瞑想をするというより、道場生の一人一人を追いかけて行く事を重要視するのです。今この子はどうしているのだろうかとか、課題を抱える道場生に関しては具体的な解決策を模索していくように思いを込めます。気持ちを「静」にするよりも、愛情をこめるという「動」への動きなのです。
指導者に立った場合、どちらかと言えば、技術論だけに走りがちです。確かに、基本はしっかりとした技術が必要になってきます。しかし、型であれ、組手であれ一生を通じて身につけて行くものです。自分自身の生きざまが技ににじみ出てくるようになるのです。その技は心技体が兼ね備わった技なのです。
人間性と人格が伴わない空手は無意味です。思いやりのない空手は何の役にも立たないのです。指導者として正面に立った時、今までの生活すべてが導入されるのです。その意味では、日々の生活が問題なのです。自分は充実した日々を送ったのだろうかということを反省するのです。充実するということは、刺激ある生き方をしているかです。喜びや感動がこの内容になってくるのです。
空手の指導は、修道僧とかシスターのように隔離した環境ではないのです。もちろん、静かに自分を見つめて行くということも重要です。しかし、空手道に関しては、絶えず世間に自分をさらけ出し、評価を受け、それにもめげず、自分自身を高めて行くのです。世俗の中で一輪の蓮の花になるように挑戦するのが、空手道であるのです。 それも、道場生を感動させる蓮の花のです。