2010年3月15日(本部長通信859)

一生修行

 人は誰でも、各々自分なりに生活しています。「生活」するとは、一日一日を暮らすことを言い、「生涯」とは、一生の人生、一生生きることを言います。この二つの概念は連動していて、一日一日の生活に繋げてこそ決定されるのです。つまり一生ということは日々が繋がったものなのです。
 そう考えると、「生涯」という価値的側面の内容は、どこで決定されるかということです。生涯みな生きて決定されるということにはならないのです。一日一日の暮らしの日々が、決定するようになっているのです。
 それでは、より良く暮らすということはどのような事かというならば、生涯の全てを代表している毎日を、充実した生活をしなさいということなのです。今日大切な日として暮らしたという事が言えた日ならば、自分の一生で誇らしい記念日なはずなのです。価値あるように暮らすとするならば、生涯その日は忘れることができない日になることは間違いないのです。
 それで、今日師範も元気でがんばるのです。今日の師範の心臓から流れる血液は、動脈と静脈を通って、循環器官を活性化させ、生き生きするのです。さらに神経系が脳から伝達され、恒常的に活動しているのです。今日一日師範ですが、莫大な消耗戦を身体は行っているのです。しかし、次の日の朝、玄関で脱いだ靴を再び履くのです。
 このようにして、生涯を送るのです。自分が消耗させて元気で頑張ろうとすることは、高気圧圏を形成するのと似ているのです。そして、あらゆる師範を待ち構えている低気圧圏に投入されるのです。そこで、循環運動が起こり、回転が始まり、自分の人生に生きがいという充実した流れが見出されていくのです。それゆえ、道場に対しても投入して、投入して、また投入するところから、師範の生き様が表現されていくのです。