2010年3月11日(本部長通信855)
肉体に良き物を記憶せよ
自分の生涯で、もし誰にも話せないような生活をしたとするならば、その生活を取り除くことができるかというのです。師範は断言します。絶対に取り除くことなどできないように刻み込まれているのです。
極真空手の修行をするということは、価値のある生涯を残すための努力をしようとする意思であると思うのです。年齢を重ねたとしても何かを正すということは難しいのです。それゆえ、空手修行の意義が見えてくるのです。
それゆえ、極真空手を始めるにあたって、若ければ若いほど良いのです。二十歳からはじめるよりは、三歳からはじめたほうが良く、子供のころから空手道に触れて知って大きくなったというのがもっと価値あることなのです。
技術を身につけることを言っているのではないのです。人生を過ぎていくとありとあらゆる物が混じってしまっているのです。ですから、あらゆる汚いものがあるとするならば、排泄してしまわなければならないのです。
極真空手の修行はまさに、ろ過装置を経るようなものです。水の中に汚い塊が混じっているとするならば、流すこともできない日常生活なのです。自分がレントゲン写真のように照らされて見えたとするならば、気持ちの良いものではないのです。そのような、ろ過装置が極真空手であるといっても過言でないのです。
私の罪を犯した対象者が尋ねてきます。保護司ですから、更生する戦いが始まるのです。罪を犯したことによる自身が負う負債は計り知れないものがあるのです。社会が犯罪者を受け入れる社会にはなっていないのです。つまり、ボトルがあれば、これに合うナットがないのです。社会はボトルとナットが合ってこそ、満たされるのです。ところが、罪を犯した人の行き場がないのです。
それゆえ、社会復帰がいかに重要なのかは肌で感じるところなのです。生涯は一度しかありません。瞬間のようですが、一度だけです。今過ぎてみた過去を振り返ってみて、余りにも短いい瞬間であったとしか思えないのです。
極真空手は間違いを起こす前に、しっかりとした責任ある自己の確立をして、センターに立って一切を調節する能力を身に着けようとするのです。それは当然武士道ということなのです。そうでなければ、極真空手を修行している意味がないのではないでしょうか。