2010年2月24日(本部長通信840)

手塚グループの理念 家族(14)

 師範が若いときに、妻の選択のとき、考えたのは自分よりすばらしい人を求めたような実感です。出来の悪い人ではなく、素晴らしく良い妻を求めたのでした。師範だけでなく、洋の東西を問わず、誰でも同じ結論を下すのだと思います。
 ところで、自分よりも素晴らしい人として選択した妻を、その後どのように対処しているかというならば、「釣った魚には餌はやらない」状況になって、意外と選択した動機も維持できなくなって習慣化の波の中に過ごしてしまっているのではないかと反省するのです。
 ましてや、愛する子供に対して、その子供が父母以上である人間になることを願うのです。自分よりも出来の悪い子供のままでいて欲しいと願う人はいないのです。私の息子ですが、今年で21歳になるのですが、その息子が、師範の顔とそんなに比べてなんでもないように思えても、私に対して、私の息子が私より美男子であるとか、ジャニーズ系であるとか褒められると、私の気持ちは良くなってしまうのです。
 不思議な心が人間にはあるのです。例え母親の顔が女優の顔のように美人でも、その母親の抱いている猿のような顔をした赤ちゃんをみて通り過ぎるおじさんが「母親より何倍もかわいい」といえば、実に喜びは最高潮に達するのです。
 母親の心境は普通の気持ちではないのです。「何ですって?私よりも何倍もかわいいですって?それじゃ私は何倍もブスということじゃないですか」と口惜しがる母親はいないのです。ただうれしくて、どうして良いか分からないのです。
 どのような親でも、家の後継者は自分の身代わりを立てるのです。自分よりも出来ない者を身代わりに立てることは願わないのです。子供が、自分より優れてはいけないと考える父母は絶対にいないのです。
 その意味では、政治の世界でも、自分以上のものが現れてくることを願わなければならないと思うべきでしょう。家庭においても、政治の世界においても、誰彼と問わずに、自分よりも素晴らしく、自分より全てのものを整えている後継者が現れることを願わなければならないのです。これは、歴史の変遷を超越する永遠に近い要求条件なのです。