2010年2月23日(本部長通信839)
手塚グループの理念 家族(13)
父母は、子供を生んで育ててみて、愛している大切な子供から幸福を感じたいのです。また嬉しいことがあれば、子供に伝えたいのです。そのような心を抱き、子供がまっすぐに育っていってもらいたいと思うのです。
夜も昼も、子供が怪我をしていないかと、切ない心で落ち着かないのも親の心であるのです。胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、おしっこを漏らして匂いがしても、その環境が嬉しいのも親なのです。
私たちが子供を抱いて育てるとき、子守唄を歌って、話しかけ、立派になることを願うその心は親なら誰でも持っているのです。子供に何か大変な事が起きたら、親の心はその胸が涙で全てぬれるほど、これ以上ない苦痛を味わうのであり、これが解決されると、その苦痛に比例して喜びも伴うものです。
保護司の仕事をして感じることは、息子が罪を犯して投獄されれば、その子を許し、涙を流して愛そうとするのが殆どなのです。もし、その息子が死刑囚になって死ぬ時間になれば、親は死刑執行を親は知って嘆き悲しむのです。
もしできるなら、この世の法律を全て変えてしまうことができるとしたら、息子を救える道が一つでも冒険してでも命をかけてやりぬくのが父母なのです。自分の体を打ち、自分の体を失ってもかまわないというのが親なのです。
最近感じることは、子供に与えても不足を感じ、愛しても愛し足らないことが無いかと言って、与えてからも物足りずにやりきれない思いを抱き、このようなものではどうかと思って探すのです。それはまさに、人間の本質に属することだと思うのです。それが愛情の出発の伝統的動機であると思うのです。
私の場合、子育ては、幸福な時を過ごさせてもらった宝なのです。誰にも奪われない思い出であり、極真空手で子供を育てという経過が嬉しいのです。道場生の親が、例え空手をしていなくても、そこには、私が感じた心の満足感がみなぎり溢れると確信するのです。