2010年2月6日(本部長通信823)

人生について考えてみました


 人生八十年。長くて、百年でしょうか。喜怒哀楽が入り乱れる人生です。いろいろなことがあります。歳月は本当に長いのでしょう。しかし、食事をして、風呂に入って、寝る時間があるのです。そして生活のために働く時間、レジャーを楽しむ時間、あらゆる雑用で終われる時間など考えて見ましょう。どのぐらいの時間が自分の時間なのでしょうか。
 私がホームページにアップする通信は、毎日2時間ぐらいの時間をかけて書いています。2003年から書き続けて、800回とすると、1600時間ということになります。ずいぶん時間をかけて書いていると思っていますが、総日数が七十日にも満たないのです。結構有意義に7年間過ごしてきたという実感ですが、累計するとそんなものです。
つまり、衣食住という生活に追われて、みんなにメッセージを送るために使った時間は、七年過ぎてみて、たった七十日にも満たないということです。師範が自分のために、自由に使った時間は、生まれてきてから今まで振り返ってみても、累計何年でしょうか。
自分の人生が長いといっても、自分のために使える時間はわずかであるといわざるを得ないのです。さらにまた、人生はゴム紐のようです。誰にも等しく与えられると考えられる自分の時間が、短い時間として無駄に価値を発揮しない人もいるのです。しかし、十分浪費することなく有意義に過ごしている人もいるのです。
こんな表現はおかしいのかも知れませんが、時間は物のようなもので、もともとその物を使うために活用しているかどうかなのです。人は誰でも幸せな生活を願わない人はいないと思いますが、衣食住は、それだけでは浪費しているに過ぎません。自分が死ぬ瞬間、生涯の富と栄華は、一度に泡になって消えてしまいます。
師範の場合は、自分の自由に使った時間を費やしたことだけけが残り、後世の人たちに記憶されます。その時間だけが痕跡なのです。人が生まれて死ぬことは、自分の意思によらないのです。さらに、自分の運命に対してはどうでしょう。
生まれても自分が生まれようとして生まれたのではないのです。生きていても自分の思いどおりに生きることができるわけでもないのです。死ぬことも自分が死のうとして思って死ぬのではないのです。
人生において、何も権限がないのに、自分を誇ることができるのでしょうか。自分が生まれたいと思って生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死の道を避けることもできない人生です。威張ってみても空しいだけです。人より高い地位についても、一瞬の栄華にすぎず、人より財産を集めても、死の門の前では一切財産を捨てなければならないのです。
お金や名誉や学識、その全てが時とともに流れるのです。歳月が過ぎればすぐになくなります。いくら立派な人でも、命尽きた瞬間に終わるのです。それゆえに、自分とは何か、自分が何故生きなければならないか、いくら考えても分からないのです。祇園精舎の鐘の声ということで、世をはかなむことになるのです。
しかしながら、師範は決めてしまいました。人生は家族のために生きなければならないということです。それこそが私という人生で、自らの意志で選択できる唯一の価値です。与えられた人生で、どれだけ家族を愛したのか、ここに人生の勝敗を賭けるのです。道場生は家族の延長そのものなのです。