2010年2月3日(本部長通信820)

私の人生の判断

 仙台に帰ってきたのは、1992年ですから、18年の歳月が経ってしまいました。40歳の若さで、過去の栄光のすべてをかなぐり捨てて、ゼロベースからの出発をするのです。もちろん過去の栄光にこだわりたい気持ちはありました。
 何も手に着かず、貯蓄も底をつき、一年が過ぎ、家族を養わなければならない私でしたから、何ができるか考え始めていました。深く瞑想にふけり、自分がどうしなければならないかと求めた結果途方もない家族が反対する道「学問」を選択決定したのです。
 東北学院大学に入学しました。長男、長女、二女と出揃っていた時ですから当時は妻もびっくりしていましたが、時間が経つにつれて真剣な私を応援してくれるようになっていました。
 日本の学生の伝統に40歳から大学に通うことなど珍しいようでした。それでも、四ヶ月余りの受験勉強をし、すれすれに合格でした。それでも、合格してからは普通の学生とはまるっきり違うのです。当時の授業にはパソコンを持ち込んで、教授が語ることを一字一句書き記していくのです。
 今では実に普通のことで、その場で教授とメールのやり取りをするぐらいですから、私は、大学でパソコン使用開拓者第一号ということになります。教授が語る言葉と同時に文字を打つのですから、教授もびっくりです。定期考査のときには、きれいな講義案として教授に送るくらいでした。
 時代は必ずパソコンの時代に来ると思い、30歳にIBMのコンピューターを七百万円で買い入れ、当時はカタカナと数字だけでしたが、会社で購入し、取引の推移を記録していたのでした。実に珍しく、そのコンピューターを社員にさせるのでなく、自分で運営したのですから先駆的でした。
 さらに、オペレーションシステムを学び、コマントを打ち込んで自由に使うに至っていたのでした。さらに、一年が過ぎてシャープでワープロを出したものですから飛びつきました。当時六百二十万円、惜しげもなく会社で購入して、社長専用仕様の玩具になっていました。
 そこで、学んだのがキーボードです。タッチタイプで人が話す速さまで精度を上げて行きました。その延長が大学生活ですのでとても、新境地の開拓ということになったのでした。それ以来、経済学のすべて、自分が実践してきた経営の分析に入ったのです。その内容は膨大で8年の学問生活になったのです。大学院をでて教授になるのではないかという勢いでしたが、目的はそこになかったのです。当然成績は主席です。ほかの学生を寄せつかないのです。