2009年12月13日(本部長通信756)
私の歩み(43)手塚会長との出会い
私が故郷へ帰ってきた目的は、長男としての家督を継ぐためで、空手の指導者になる為では無かったのです。空手と仕事に打ち込んで40歳までの人生を総整理して、もう一度故郷で人生を始めるつもりだったのでした。それゆえ、大学にも通い、地域社会に貢献するボランティアをも選択したのです。
数年が過ぎて、当時一番町の極真会館仙台道場が開かれたので懐かしさのあまり、門を叩いたのでした。それは、指導者として歩んでみたいという希望もあったのです。そこで、師範代として出発することになったのですが、道場生は誰もいないというのが現状でした。
この仙台道場のグループの責任者が手塚会長だったのです。そして、ここで手塚会長との出会いが今の立場を築くことになったのです。今まで続けてきた極真空手を生かす道はないかと討議したのでした。四年間師範代で仙台道場に奉仕していた矢先、手塚会長は今のグループの姿を憂い、会長職を辞退して、一人新たなる道へ出発していたのでした。
私も、仙台道場が四百人もの人が門を叩いてくるようになると、オーナーの息子を師範代に置くということで、私は半年もせずに追いやられていくのです。その時はすでに、空手に対しての責任感が深まっていたので、宮城野支部として発足を願い出て、何もないところからの出発を志していました。
会長との再びの出会いは、次の年になるのです。理想や理念が本当によく似ているのです。何かしら、別れていた兄弟のようでした。それがまさに、手塚会長を直接の先生と仰いでいく歩みになったのでした。
2001年3月に、会長の配慮で極真会館宮城県本部師範としての歩みをさせてもらったのです。グループを「今までのような組織ではなく、家族であり、対話が尽きない、自然を愛する団体にしましょう。」という合意がなされたのでした。
会長からは、あらゆる話をする中で、家族愛に訴えられたのです。グループは組織であり、家族であるという信念を叩き込まれたのでした。会長と私がすらすらと通じるので、気持ちが安らぐのです。極真会館家族運動に出発した記念する時であったのでした。
極真家族の話題で、話の糸口から、組織拡大への展望をする中であらゆる知恵を出し合いながら出発することになるのです。会長は餃子作りの事を話します。海外の道場を訪ねた時は毎日餃子を作り、皆で喜んで食べてくれるというのです。会長は家族的つながりの原点の為に餃子を作るというのです。「とても美味しい」と海外の道場生は言ってくれたと話すのです。
さらに、会長の右腕になっているアラン師範も、やはり餃子を一緒に食べたそうです。そして、その餃子を食べたことと、その餃子を手塚会長が作ってくれたことをアラン師範の妻に話したら、そのような人は絶対に信じることが出来ると太鼓判を押されて会長に従ったということなのです。会長との出会いは、アラン師範にも幸福と平安をもたらせてくれたのでした。