2009年12月6日(本部長通信749)
私の歩み(36)社会の混迷する中での決断
1971年、私が高校三年の時に、人生の大転換期を迎えていたのでした。当時世界的に共産主義が猛威を振っていました。世界の三分の二が赤化され、日本もその危機に会った頃です。私もその時は、朝日ジャーナルとか、青木書店で共産主義読本とか、ニーチェに始まり、マルクス、レーニンとそれらの関係書籍を読みあさっていた頃でした。
東欧やソ連はそのメッカのように思っていました。当時の日本も、共産主義と青少年の退廃、フリーセックスなど、世の中の存在するあらゆる問題が、るつぼ化していました。私が本当に共産主義と別れを告げたのは、1972年の連合赤軍の浅間山荘事件がきっかけでした。共産主義がこのような形に変貌していくのかと目を疑ったのでした。
もちろん、ベトナム戦争を巡る葛藤、物質文明に対する懐疑、社会が激しき混沌としていた時代であったのでした。人生に意味を見出すことを検討していた私が門を叩いたのが、当時社会が受け入れない、実践空手すなわち喧嘩空手を唱える極真空手だったのです。
当時の社会での青年達は、人生に意味を見出すことができず、道端をほっつき回って、酒と麻薬、フリーセックスに人生を浪費していたのでした。低俗でわいせつな映画が大手の会社から配給されるなど、あらゆる犯罪の温床になっていた時代でした。
まさに、極真空手は、私の修業の道ということになったのです。伏線は当然、中学・高校と柔道をやっていて二段の腕前であったことでした。門を叩いてすぐに挫折はしたものの、自分に対して厳しく見つめる目を養うことになったのでした。