2009年11月29日(本部長通信742)
私の歩み(29)本部道場と私の指導

 常設道場を構えてからは、道場に私の気持ちがこもり始めました。全てが手作業で少しずつ形になり始めました。この道場は私たちの歴史そのままなのです。そして、例え借りものでも極真会館宮城県本部の歴史をそのまま証言する場所でもあるのです。いかにみすぼらしくとも、本部の歴史は消えることはできないのです。
 当然重要なのは、端正な立派な道場ではないのです。その中に宿った極真スプリットの意味だけなのです。確かに、不足な面は余りにも多くありました。発展途上といって何らはばかることもないのです。しかし、そこに伝統があり、「道標」として、価値が燦然と輝いているのです。
 道場に正座して正面を見据えると、歴史が刻まれてきた思い出が浮かび上がってくるのです。私は、伝統を尊重していくのです。それをしなければ、ただ滅んでいくだけなのです。曲がったアコーデオンカーテンを観ても、粗雑なドアを観ても、こみ上げてくるものがあるのです。私に必要なのは、この道場での思い出や追憶なのです。模様や外見が古臭くなろうとも、歳月が過ぎて、私の心の安らぎの場所なのです。
 私は、生涯稽古を続けてきました。しかし、いったん組手を始めると鬼のような形相になります。稽古をするということは、道場生の生命を生かしもし、殺しもするという気持ちでした。私の稽古で道場生を正しく導かなければならないのです。本当に重要な問題です。道場によっては、稽古に心から訴えるものが無く、ただ汗を流すかけの道場もあるのです。
 極真道場の稽古の流れは、確かに大山総裁から引き継がれた伝統はあるのです。私の場合、稽古の内容を前もって定めないのです。前もって準備すれば、道場生不在の稽古になるかもしれないと不安になるのです。私の今まで稽古を行った内容は誇ることができるかもしれませんが、一人一人に切実な気持ちを伝えることができないのです。私の準備は、稽古の内容が例え全てを網羅していなくとも、真実の心を持って対処していることになるのです。
 道場で多くの道場生が育っていきました。大会に出場しようとする選手会の親たちは、指導者の一挙手一投足を眺めるのです。道場生を前にして、ごまかしはききません。毎回が審判のひと時かもしれないのです。稽古の中で真が大切で、ガラス張りの中での指導をしてきたのでした。
 それゆえ、指導者と道場生家族の心が通じるような環境に道場はなって来ているのです。毎日が真心からの指導なのです。宮城県本部も次第に大きくなってきました。そして、自分の人生を叶えようとしていた人たちも、私と人生を共にするようになっているのです。一生懸命に指導を重ねてきた指導者は、永遠に忘れることができない友なのです。