2009年11月25日(本部長通信738)
私の歩み(25)初期道場

 私のいく道は、結構険しいし、目的の到着地点は余りにも遠い先にあるので、いつも自分に言い聞かせるのは時間が無いということになります。個の確立と全体の方向性をマッチさせ、良き人材が集ってくる道場にしなければならないという決意だけが私の信念になりました。
 1996年2月正式に極真会館宮城県本部仙台道場の師範代として出発したのでした。一番町という繁華街に位置していましたので、毎日のように入門者が来ました。道場には私一人しかいないので、入門を躊躇するのです。さらに、悪い事に、このビルのオーナーがとんでもない人で、機関銃をビルの地下室に隠していたのでした。
 変なうわさが立ち、ビルの賃貸人である師範代の私が、あたかも暴力団関係者であるかのように思われたのでした。立地条件も良い、しかも、空手道場として200坪もある5階フロアー全部が道場という、恵まれた環境にあった仙台道場ですから、同じ空手を運営する団体から難癖をつけられても仕方がありませんでした。
 マスコミで事件が報じられ、オーナーが逮捕されると、入居している仙台道場の私にあらゆるデマが流れました。しかし、一年も過ぎると、入門してきた人たちは、一生懸命極真空手の真髄に触れて、活気溢れる道場になって行きました。当然私も先頭切って指導に当たりました。
 世間の噂とは裏腹に、極真空手の魂に触れて、稽古に毎日のようにやってくる道場生も数多くなってきたのです。特に一生懸命だったのが、山崎氏で、後継者としての期待をするほどのセンスある空手を身につけていました。しかし、ある程度芽生えて成長すると、純粋な彼は、女子部の道場生と関係を深めて行ったのでした。
 それも、家庭を持って子供もいる女性ですから、悔しいやら、悲しいやら泣けてきてしかたがありませんでした。また、毎日富谷町から自転車で通う熱心な高校生の次藤氏や女子部では林氏、青木氏、福島氏といったメンバーが核になり急速に伸びてきました。さらに、福島県の安齋道場の田中氏、ちょっとお母さんを頼りすぎる桜井氏と指導者も揃ってきました。
 その頃になると、変なうわさも一生懸命稽古する私に何の影響も出なくなってきました。それでも、インターネットが普及する時代を迎えていたので、私が女子更衣室で師範代の特権で女性に触る権利を持っているとか、女性の誰それは、愛人になっているとか、あれはオウムであるとか、道場生から寸借して金を返さないとか、様々なうわさが飛び交うのです。
 一般部が充実してくると、澁谷氏、阿部氏、菅野氏、永戸氏、野田氏、石井氏、丸山氏、高橋氏が核の存在になってきました。また、この頃になると、少年部が充実してきて、少年部のお父さんとして大友氏が「ミイラ取りがミイラ」になって入門してまいりました。
 道場として成熟しようとするときに、寄りによって、私の師範代という立場に試練がやってまいりました。2000年の頃です。ちょうど、32回の全日本空手道選手権大会を主催した時でした。大会は大勝利で、田中優勝、桜井準優勝で幕を閉じたのでした。道場の主人が息子に道場を任せたいということで、立場を失っていったのでした。それでも、極真空手に対する動機は変わっていなかったので、2001年7月から、宮城野支部としての出発を榴岡軽体育館することになったのでした。