2009年11月18日(本部長通信731)
私の歩み(18) 指導者としての第一歩

 大阪からの空手道の歩みは、選手時代から、選手を生み出す指導者として展開をしはじめました。習った事を弟子に伝えるという意味合いの実践でした。道頓堀の道場には、あまりにも繁華街であり、環境が悪すぎるので、いつの間にか、道場に通うのが、一週間に一度ぐらいになっていました。
 三十五歳になっていましたので、体力維持とお節介にも極真空手を知ってもらいたいという願いも込めて、大阪府立体育館地下柔道場で極真空手の講習会が始まりました。生徒は、会社のメンバーで、一週間に一度月曜日朝九時から始まりました。
 当時、経営者として忙しく仕事をしていましたが、重役会議開いてすぐさま、大阪、和歌山、奈良の社員全員朝に集合です。当時支店が難波、京橋、天王寺、奈良、和歌山にありましたので、社員教育を含めて強制的に研修が行われました。時間は二時間、会議も含めて午前中昼食まで空手道兼営業指導ということでした。集まってくる人数は用事がない限り強制参加でしたので、百五十人を下ることはなかったのでした。
 全員に運動着てもらっての指導でしたので、爽快でした。会社総力を挙げての研修はこの時からでしたが、それ以前、東京では朝のミーティングの前、30分位空手の練習を始めていたのでした。日ごろの活動の他に、空手道は一日の出発の決意を促してくれるものでした。
 営業が主体の中小企業であったので、前線で活動するのが全てでした。その意味では、社員の精鋭化が願われたことは言うまでもありません。そこで、空手道の研修です。ある意味でいい加減な社員は振り落とされたのでした。しかし、核となるメンバーは最高に訓練され、会社を背負って立つ人材として育ったのでした。