2009年11月14日(本部長通信727)
私の歩み(14)広島での修業

 二十七歳になって、千順さんの両親に結婚の承諾を戴くことと、広島にも事業を広めたいこともあって、支店を広島に出したのでした。長年慣れ親しんだ高木道場から、広島の森周治先生の道場に移ったのでした。北海道を出て、飛行機で広島に向かいました。その当時の私は、心に余裕がなかったのだと思うのですが、即決で、札幌は後輩に任せて、開拓の道を進んで歩んだのでした。
 自分の築いた基盤を全て譲って、次のチャレンジをしなければならない自分に、疑問を持ちながらも、ゼロになっての出発が始まるのでした。なぜ、このような困難な道を行かなければならないのかと、不思議な感じに思いながら、冒険心の強い私は、元気よく出発なのです。その時に、芸北町の八幡に何度も足を運んで、千順さんの両親に会いに行きました。どのように受け入れてくれたか分かりませんが、千順さんの幼い時からの写真を見せてくれました。
 ここで出会ったのは、あの世界選手権大会でウイリーウイリアムズと死闘を演じた田原敬三でした。私よりも一歳上の年齢で野球少年であった彼は、腰の故障で野球ができなくなり極真空手にのめり込んでいったそうです。それで、稽古はもとより、良い話し相手になって、全国制覇を夢見ながら過ごすことになったのでした。
 ここで、私は黒帯を池袋の本部で取得するのですが、その時の稽古は半端なものではなかったのです。精いっぱいの情熱を注いで稽古をするものですから、体中から物凄い量の汗が流れました。汗が、滝のように流れ、流れた汗が、道場の床を濡らし、それが乾くと白く食塩が残っているように見えるのです。いったん休憩して、空手着を絞ると雑巾から水が出るようにぽたぽたと落ちます。もちろん夏だけではないのです。雪の降る厳寒の季節でもそうだったので、全身全霊を込めての修業であったのでした。