2009年11月8日(本部長通信721)
私の歩み(8) JKJO大会での失敗

今回の審判の件では、審判長にご迷惑をかけました。宮城から私一人が審判参加だけで、予定したもう一人の審判不参加ということで、予備審判おぼつかない中での厳しい運営であったと知らされました。
ある方の一方的な私に対する非難の気持ちを、そのまま、師範の多くの方がいる前で、「森師範、またやってくれましたね」と話される意図は、悪意をそのまま継承し全体の前での批判と感じてしまいました。幼いことです。「また」という言葉の中で、何か私に手落ちがあったのでしょうか質問したくなるのですが、結局相手とのコミュニケーション不足であることはいがめないのです。私は、手塚会長のグループですから、たとえある人が、悪意を持って接しておられても、敬意の念を持って、全て善意で受け止めるように指導をうけているのですが恥ずかしいながら実践できなかったのです。
 ところで、何につけても、自己弁護してしまう今回の私でした。今回の審判参加は、予定大会実行委員長、審判長もしくは、ある方からの要請ではなく一団体を無視した強制に思えたのでした。緊急に一週間前に、強引に言い渡されただけなのです。「二名の審判を出せ」。そこには、人間として、信頼関係のない表現と悪意に感じてしまったのです。
そこで、大会に参加での大会審判長の指摘は、とてもつらく感じてしまいました。私は、悪意に取れる内容を全面的に受け入れ、努力することで、瞬時の回答です。善意として受け止め、努力して審判をさせていただこうとする気持ちでした。審判要請は、大会審判長が主張する批判は、当然の内容なのです。私たちの指導理念は、突然無理して審判をしてもらうことに対する感謝と思うのです。
この大会を前後して、こんな内容にも遭遇しました。自己顕示力です。自己顕示力を示す方法として、一つの過ちを最大限追い詰めて、窮地に陥らせ条件を奪ってさらに、追及するという手口で、一方的に、自分の言い分を上乗せして、相手に脅迫概念を抱かせる論法です。そのような人物が師範であるとしたら実に、嘆かわしいと思うのです。私たちの指導は、過ちを許し、良くできたことに対して尊重し、お互い面子を立てあうようにするのです。