2009年11月2日(本部長通信715)
私の歩み(2)母の実家の温もり

 私は当時、金髪の髪をして、天然パーマで額が出ていて、西洋人のような顔していたのでした。本家の母の父親(金森亀一)からナポレオンと呼ばれていました。私の母の実家は、子沢山で母の兄弟が10人もいました。盆や正月は兄弟姉妹が集まりにぎやかな会話で包まれます。食事の時には宴会そのものでした。
 私の母は、小学校でも中学校でも休みとなれば、実家に私を送ります。経済的な理由が大半を占めていました。その実家は宮城県の西部にある泉ヶ岳の裾野に面していました。母の実家での生活は、自然そのもので、母の父(金森亀一)と魚とりやキツネやタヌキといった動物を捕まえに山に入ったものでした。さらに、山小屋も構えて、温泉と称してドラム缶で湯を沸かし、滝にウナギの仕掛けをして、ヤマメやウナギなど、火に焙りながら美味しく食べたものでした。
 母の父と近所の農家の何人かが農業の傍ら、母の実家の囲炉裏に集まっては、いろんな話をしていました。伊達藩の時はどうであったとか、この場所は、藩の重鎮の狩りの休憩所であったとか、様々子供ながらに聞いていました。母の父(金森亀一)は剣道六段で宮城県でも知らない人はなかったほどの剣豪だということでした。その息子、母の兄(金森従之)は、その血筋を引きついて、剣を政治に変えて、七期の仙台市会議員を務め市民を守り抜いたのでした。 
 農家でありながら、心は農業の事だけでなく、世間の話を絶え間なく話す家風であり、金森家には、明らかに温かい愛情が溢れていました。私は実家でご飯を食べ、多くの集まってくる人たちから愛情を施されたのでした。金森家にはさらに、従姉が二人いて、良く自然の中で探検と称して出歩きました。金森家で教えられた深い友情や温かい愛情は、今日に至るまで私の人間としての力を与えてくれたものでした。