2009年11月1日(本部長通信714)
私の歩み(1)両親の影響
1951年サンフランシスコ講和条約が締結されて、七年間の占領支配下からの日本が独立を認められてから、私は生まれたのでした。戦後から立ちなろうとしながらも、少なからず貧しい時代であったのでした。東北大学病院の産婦人科で生まれたときには、台風の直撃だそうです。仙台市宮城野区に生まれ、当時田園風景が広がり、田んぼや近くの里山が遊び場でした。私は、朝ご飯を食べたら、外に遊びに出かけ、一日中、山や、川、そして田んぼの中を歩き回っていたのでした。
幼いながらも、山に入って、栗や、アケビ、野イチゴを取って歩き回ったものです。ちょうど農業試験場があった東仙台から鶴ケ谷がテリトリーということになります。さらに与平沼ではフナを釣り、蒲生海岸では、あさりを取ったり、ハゼ釣りに興じたりして、心豊かに育ったことになります。
潮干狩りは、家族で出かける楽しみでした。両親と子供たちで、あさりが、大きな袋いっぱいになるのです。それもそのはず、朝9時ごろ到着すると、夕日が沈むころまで貝を探し続けるのです。両親は、中度半端ではないのです。昼飯も早々に済ませ、また一生懸命貝を取り続けるのです。私もそのひたむきさは、当たり前のように培っていました。
さらに、収穫が終わった田んぼに日曜日となると出かけるのです。当時は農薬が使われていなかったので、イナゴが大群をなしていたのでした。そのイナゴを家族で取り続けるのです。大きな袋にいっぱいのイナゴがうごめいているのです。それを佃煮にする工程が始まります。そうすると、夜中になってしまうのですが、それも楽しい思い出なのです。
物心ついて以来、今日に至るまで、私の人生のテーマになったのは、両親の影響をうけて、自然を愛する心と家族と睦ましく生活することなのです。私は、その意味で両親の姿を目に刻みながら、家族と共に、武道の道を中学校、高等学校、大学、大学院、社会人と歩み続けて、その精神を家族と自然に置いてきたのでした。すでに、武道探求歴が30年以上の歳月になったのです。
私は、自然を愛する希望の光を求めて離さず、生涯、自然を愛する心で生きてきました。私の願いは、人間が自然に親しむ環境を形成し、富むものと貧しいものの格差を埋めて、家族睦ましく暮らすことなのです。私の幼い頃の純粋な心が、良き家族を築く根本になると思い、両親と自然を愛した日々が愛の息い遣いとして感じられるのです。