2009年8月30日(本部長通信651)
人間関係(1)保護司(師範)としての基本的立場

保護司として歩んでいく中で感じることは、どんな犯罪人でも、結局は自分が悪かったとは認めないのです。罪を犯した人の大半は、自分の心は疲れ果てた心ではあるが、状況が自分をそうしたのであって、本当は誰ひとり傷つけようとは思わないのです。
 大概は自分自身の生活や立場を守っていくためにどうしようもないことだったと結論づけます。どんなに刑務所で刑期を終えた人でも、大概は自分が悪かったとは思わないのです。大概自分は社会に貢献したと話すのです。しかし、冷たい世間の非難や批判で自分は罪を犯さざるを得なくなったと思ってしまうのです。
 本人は、一般の善良な市民と思い、あらゆる理屈をつけて、正当化し、刑務所に入った事は実に不当だと思います。保護司の私に対して語る言葉は、確かに法律上誤りだと認めるのですが、本心はなかなか悔い改めに至っていないというのが現実なのです。
 私が、保護司として対象者に対して、心掛けることは、実に今の生活が、良くやっていると心から褒めます。さらに、批判めいたことよりも、これからの生活に期待を持って指導するのです。この指導のゆえに、相手は怒ったり、恨んだりする生活から、社会人として規則を守っていくことを心掛けるようになると確信しています。
 保護司の経験を積み重ねていくうちに、罪を犯した人ほど、自分の事は棚に上げて、人の事を言いたがるのです。それはまさに、罪を犯した人の心理なのです。この事は、悪人だけではないと思うのです。どんな人でも非難されれば、自分を守ります。結局、相手は逆に逆恨みをすることになるのです。
 教訓として私が話したいのは、悪意を捨てて愛を取れということであります。聖書の中にも「人を裁くな!人の裁きを受けないからである」と表現されているのです。さらに、厳しい批判や詰問は、大概の場合、何の役にも立たないと感じるのです。ある意味で、お釈迦様だったらどうするのだろうかと思いを馳せた方がどんなに良い事でしょう。
 保護司として、犯罪者の欠点を直してやろうとする気持ちは、立派な事なのでしょうが、私は、まず自分の欠点を改めようとするのです。罪を犯した人を矯正するより、自分を直す事の方が、よっぽど為になるのです。この観点は、確かに人の指導に欠かせない事だと思うのです。
 およそ、多くの人を指導する場合、対象者は感情の動物であると認識すべきなのです。しかも、偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって固められた存在と思った方が良いのです。それゆえ、私の態度は、理解と寛容なのです。人を批判する代わりに、相手を理解するように認めましょう。どのような理由でそのような事をするに至ったかを検討すべきなのです。そして、全てを知ることからなのです。この特性は克己心を備えて初めて持ちうる徳なのです。 閻魔大王でさえ、人生を全て終えさせ、死んでから人を裁くではありませんか。