2009年8月12日(本部長通信633)
文誉の成長(2)

 文誉は典型的なB型の血液型で、かなりの気分屋の雰囲気がありました。結構わがままで、すぐに比較するのは姉です。小学校時代は、学校の成績も真ん中で、それほど勉強をするタイプの女の子ではなかったのでした。順香がオール5であるとすると、文誉はオール3という程度の学力でした。
 それでも、姉と競うのです。文誉の小学校時代は、私は大学に入学をしていたので、よく大学にも連れて行きました。東北学院大学夜間のコースでしたので、生協の学食で食事をさせ,その後に学校探索をするというプログラムでした。最初に起こった事件は、授業中クラスのドアをガラッと開けて見回しそして逃げていくという事でした。
 大学の警備員から苦情がきて、大変でしたが、子供連れの学生は私しかいないので、寛容に対処してくれた思い出があります。妻が下宿業で食事作るのに忙しいのと、ほかの多くの家族の面倒を見ていたので、保育園に迎えに行って、道場、健康ランド、そして、家でのくつろぎ全ては父の私が面倒みるのです。土日は近くの安西家に行くことで、文誉もお父さんの子供という印象の生活状態でした。
 私の大学院のゼミの合宿にはよく連れてきました。山形の蔵王温泉では、夜中、そして朝方まで友達と遊んで寝ないのです。サクランボ狩り、海水浴全ては良き思い出なのです。
車で、海水浴には良く出かけました。遊びは子供たちと遊ぶことが殆どで、その刺激は忘れられない人生の生きがいになりました。
 文誉も含めて、この子供たちにために自分の人生があるのだと心の底から思えてきたのです。私が大学に入学したのは、税理士になるためでした。当時大学を経て大学院に入学して、会計学の大学院と税法の大学院の二つを卒業するだけで、全教科科目免除になり、そのまま税理士ということだったのです。
 私はその道を進んだことになります。税法の三科目の免除をもらい、次にと思ったのですが、子供たちの顔が浮かんでくるのです。この子供たちに親の姿を最後まで見せておこうと自分の人生の決断を下したのでした。税理士で仕事に追われる生活よりも、子供たちとともに生きる生き方をしようと本気で思いました。その意味では、家族をモデルとする仕事、それが空手道場の経営であると思えたのでした。そのことが、ますます文誉に関心を最大限抱くことになりました。