2009年6月17日(本部長通信578)
父親の子育て奮闘記
長女順香(3)

 私の両親は60歳を過ぎていましたから、息子の帰りと跡取りの事をしきりに電話で何度も語りかけるのです。ついに根負けということと、妻にも確認して、この時期が潮時であろうということで合意して仙台に戻ることにしました。順香の一歳半の時でした。自分の娘を見るといのちが先か愛が先かに結論を出すことができるのです。夫婦の愛ゆえに娘の命が宿ったことを考えると愛が優先すべきであるし、愛情の表現なくして娘は育たないのです。その娘はとても元気なのです。
 仙台に来て実家の近くのピッコックマンションに居住しました。四階で見晴らしがいい場所でした。子供たちは3人でしたので、長男と順香は仲が良すぎて、部屋で飛んだり跳ねたり朝から昼から夜まで途方もなくうるさいのです。私たちは親ですから我慢できるのですが、上下のマンションの住人の人たちは他人でありますから、太鼓のように子供たちの走り回る音に堪えかねてしまっていたようでした。
 私の両親も加害者としての子供たちの現状を知るにいたったようで、実家の自宅の敷地内に子供たちに一軒家を建てるてることを提案し、実家の敷地内のある程度の騒音は許されるところに移り住むことができました。順香が三歳半の時でした。この時は、夫婦で共働きであったので、五条保育園というキリスト教関係の施設に預かってもらいました。長男はこの年のイエスキリスト生誕の演劇で目立たぬ羊飼いをやり、順香は次の年に劇のナレーションをしたのでした。とても透き通った声でとても上手でした。
 このころの順香の体系は小太りで福っとしていた体系でした。さらに困ったことに父親の私は何かしら思い余って、大学入学を決意したのでした。期間4カ月ぐらいでしたが、ねじり鉢巻き参考書片手に受験勉強です。根底に社会を客観的に知らなければならないということと、その時大学院のダブルで税理士になれる道がありましたので取り組もうかという気持ちの入れようでした。大学は夜間でしたので、順香はそのまま大学の生協食堂で食べたり、教室探検に出かけたりで、大学の警備の方には迷惑をかけたようでした。まさに子連れ狼というところでしょうか。