2009年5月10日(本部長通信540)
極真空手の美学(芸術論)(3)美学は感じられ決定されるもの

 極真空手が世に現れてから、まだ数十年の歴史しか経っていないのです。その美学はこれから多くの人々によって感じられていくのでしょうが、美の要素を秘めている極真空手は、世間にはばかりなく、美学の可能性として潜在していると宣言できるのです。
 さらに、指導している先生方の指導は一人として同じ内容ではないのです。すべて道場の雰囲気は違っているのです。違って当たり前なのです。何故なら、指導している先生そのものの個性はまるっきり違うのです。それを、画一化しようとして四角四面に当てはめてもそれは無理というものです。
 つまり、一つ一つの道場の雰囲気を見ると、現実的に、その指導に存在する美は「あるもの」ではなく、「感じられるもの」であり、その時間のその指導に「決定される」ものなのです。
 そこに、稽古を両親が見学しているのです。道場全体を見ながら、わが子の成長はもちろんのこと道場での指導内容が問題になるのです。御両親が美的精神の欲求として満足させる対象の性質を持たなければならないのです。つまり、その指導者は美を醸し出さなければならないのです。
 師範が願うことは、道場の稽古の内容が、絶えず道場生や御両親の方々に、美を意識した感動を与えることができる芸術まで昇華してほしいということなのです。それが、先生方の日々の修練や鍛錬であるべきなのです。また、そのように先生方は日々切磋琢磨しているのです。子供たちについても、稽古で学ぶ極真空手は自分の形が生まれてくるのであり、自然に美が身についていくのです。稽古を熱心にする道場生ほど、美しく輝くのです。