2009年5月3日(本部長通信533)
極真空手における倫理(5)人間の器


私は、生涯どのような生き方をしなければならないかを考えさせられます。人間の器に従って、容量の差はあっても、自分がその器に応じて満たされた後には、それ以上の量は必要がなくなっていると捉えているのです。すなわち、どんな人間の器であっても充足という点ではどんな人間でも同一と思うのです。
ところで、自然界ですが、どんな生き物に対しても、太陽の光の差異があったとしても、自然の生き物が、その存在に充分充足して照らされているのです。その意味においては平等ということになります。
 このように、人間において、秩序また自然の大小と質の差に従って各々が受ける太陽の光の量には差があっても、充足していると同じように、秩序の上下と個性の差異に従って受ける恩恵に差があっても、一人の人間の受ける量、つまり、「充足度」において100%の満足を得るという点では平等ではないかと思うのです。
 したがって、私の場合、保護司として活動し、消防での地域活動をベースに、極真会館の師範として、命が尽きるまで、頑張りぬくのが天命であり、器ではないかと思うのです。それが,100%充足しえる器としての人生であると考えているのです。私の人生に不満はないのです。人生に感謝する気持持つことによってすべて満足するのです。