2009年3月12日 (本部長通信481)
希望を願う師範(6)

 自分を中心としてあの人はいい人、あの人は悪い人とか、あの場所はいいとか、あの場所は悪いとか、あの国はいいとか悪いとかよく判断します。それは結局自分を中心として判断していることになるのです。すべてが自分のために判断しているのです。考えももちろん自分から始めているのです。
 自分を主張したい、自分を中心にしたい、その自分はいったい何者なのでしょうか。どういうものなのかはっきり、再び、これを反省し、究明しなければならないのです。水滴で例えた場合、水は塩辛い水が本当の水なのか、どうなのかです。割合から考えた場合、海は地球の三分の二になるでしょう。地球上の水の大部分は塩水ということになるのです。
 食塩水が純粋な水であるかどうかなのです。川を流れているその水をくんできて、それは純粋な水ということができるのでしょうか。川からコップ一杯の水をくんできて分析してみた場合に、みんな違うのです。普通の人が見れば同じような水でも、富士山の水と六甲の水とでは専門家から見たら成分がまるっきり違うというのです。
 道場生において、そのように考えれば、私たちは川の流れとか、海の流れの一部分であり、一分子であるといえるのです。結局一杯のくんできた水と思ったのに、あらゆる場所でくんできた水が違うように、私たちも一人一人個性を持ってみんな違うということになるのです。 だから、自分は間違いなく正しいと思うことを、問題視しなければならないと思うのです。