本部長通信390 2008年12月8日

黒帯@


 黒帯をしめた指導者は、すでに恐ろしい立場に立っている。それは、極真会館の実体であり、大山総裁からの伝統に責任を持つ立場であるからである。師範も1983年3月20日黒帯への審査会に臨んだ。周りを茶帯が垣根を築いた。師範の10人の連続組み手と相手をしながらなので、組み手は20人を超えたのである。当時28歳であったから決して若くはない。組み手が終わった時は、すがすがしい達成感が心身を包んでいた。1975年東京の渋谷で大山総裁の講演を聞いてから8年後に黒帯取得であった。
若かりし頃、人生の出発点を定めようとしていた。師範は、柔道では二段の段位を頂いていたので、中央線に乗って水道橋近くの講道館によく通っていた。講道館でも、夕方になると、外国選手も稽古に来ていて、乱取りの稽古の相手をした。当時は山下選手も稽古していて、相手もさせてもらったが、守りだけの体勢での乱取りで時間が過ぎた。
 講道館の稽古場はとにかく広かった。柔道仲間の誘いで極真会館に行ったものだから、実に狭く感じた。しかし、組み手の迫力は凄かった。それからの、空手修行となるので不思議な運命に身を晒したことになる。当時は、何もないところでの修行からの極真会館での伝統の確立であったから、多くの人が門を叩き、そして、過ぎ去っていった。ある者は少年マガジンの影響で訪ねてきたし、あるものは地上最強の空手を映画で見て、入門してきた。
 動機はどうあれ、継続することの難しさは凄まじいものがあった。組み手をすれば、当時サポータなどなかった時代なので骨のどこかにひびが入っていた。強かった先輩が挫折していった。その伝統の中での黒帯である。この黒帯の誇りの条件は、涙と血であった。特に強さを誇った。黒帯の権威は相当なものだった。黒帯は、安らかな立場で取得したのではない。苦痛と困難な峠を超えることで与えられたものである。