本部長通信387 2008年12月5日

陽のあたる坂道@


 極真空手という、大山総裁が立てた伝統に責任を持って立ち向かうことがいかに尊く貴重なことか!極真空手と名乗る限り、極真の公道を進むべきである。極真を裏切っているのにも関わらず、その関係者のふりをしている連中もいる。極真という名を至る所で都合の良いように利用するのである。公道を歩む立場であればこそ極真であり、不忠な道場生の極真など考えられない。
 師範は極真そのものである。極真として売られていく存在である。師範に損害があろうとも極真である。それは、極真の道をすべて人生として歩み、戦いを終えたのち、評価されることである。師範の人生が終えても、極真の公道は、家族や地域社会のために残していくべきであると考える。
 さらに言う。極真としての看板を背負うことは、一貫して生きていくということであり、一番恐ろしくもあり、強くもあり、知恵ある人物であると思う。極真と名乗ることは、歴史性、未来性を帯びて、さらなる跳躍を意味するのである。