本部長通信376 2008年11月24日

責任感@


 師範が極真会館の責任を持って歩みだしたころ、足を伸ばして楽に寝られなくなった。極真会館の出発から、あらゆる課題が降りかかってくるからである。毎日どうしなければならないかの連続である。どうしても心が収まらないのである。わずかな道場生であったが、育てるという基準において大事にし、どの団体にも奪われないように必死に教育を続けて闘ってきた。
それでも、何人かの道場生は、強くなりたいがために、師範を見切ってほかの団体に移っていった。理由は少年部の試合にでても、優勝できていなかったからである。確かに、極真会館は少年部に対してそれほど力を注いではいなかったから、当然と言えば当然なのであるが、それでも悔しかった。師範代は、私による12時まで付き合わされ、話を聞かされ、暗中模索する師範の心の相対になっていた。
 当時は、師範が誤ったことをすると、責任の追及は先に受けなければならないし、よくやったとなった場合には、道場生をほめていかなければならなかった。師範を誇ることなど、どんな環境でもやってはいけない時代であった。
 極真会館に責任を持って、歩むことは、実に苦しくつらいことであった。時間は休みなく過ぎ去っていくのに、心は不安で常に追われる生活の連続であった。内部では、経済問題を中心に不平不満が渦巻いた。道場生の中で、本気で極真会館を支えてくれる人物がいるかといつも心に止めた。師範の環境を守り、あちこちさまよわず、相談できる人物が何人いるのかといつも感じさせられた。
 現実の苦しさを逃避したいと思えた。心情的にも経済的にも、自分だけの世界で戦っていくことがいかに楽なのかと考えさせられた。しかし、戦いをやめることはできないのであった。自分の生死をかけた末に、勝利を決定していかなければならないと、心に決めた。
 極真会館の船出は、前途多難なんていうものではない。道場生には、そんなことをおくびにも出さず、責任を持って道場の運営にあたった。まさに、自分の力量が量られ続けた期間であり、絶えず、審判を受け続ける期間でもあった。当たり前だが、道場運営に携わったならば、責任を持たなければならないし、自分の生命と責任を取り換えることが願われた。


責任感A

 使命が大きい人物ほど、その使命に比例して試練と闘争も大きくなるだろうと思う。試練と闘争を恐れることなく、果敢に推し進めていけ。今回合意した内容を遂行することになる。師範の命令を受けて、自分の立場を守っていくことができなければならない。内容に合意した幹部は、自分の仕事を真剣に取り組むべきである。朝に来られないとすれば、連絡して師範との合意の上に、始めと終わりの報告を忘れてはならない。
 本来ならば、師範は、現場に担当しきれないほどの大きな責任を追及したくなる。じっと忍耐である。だから、担当者は常に足りなさを感じて、大きな力を発揮するすべを、みんなで協議しなければならない。
 責任上から見ると、師範が責任を持ち、師範のことは師範代が責任を持ち、師範代のことは、スタッフ幹部が責任を持ち、幹部のことは、道場生が責任を持たなければならない。なぜかというと、極真会館というところは、全体の極真会館であるからである。それゆえ、極真会館全体で責任を負わなければならないのである。
 いざ、戦いの進軍ラッパは高らかに吹かれた。勝利の栄光は、戦闘の総司令官である師範から始まるのであるが、共に参加した全戦友にも、その栄光は平等に配分されるのである。もう少し付け加えるが、勝利の栄光を求めようとすれば、すべての分野において、なくてはならない第一人者が必要になる。ゆえに、今の道場運営においてどんな分野においても、自分がなくてはならない責任分野を見つける必要がある。その責任分野を持ったならば、師範は憎らしくとも捨てることはできない。その理由は、その人のみ担当しえる、その分野を他の誰もできないからである。


責任感B

 老体を鞭打って、家族を守り続けた父親がいる。八十歳を超えて、今毎日介護センターでデーサービスを受けている。わが家を一代で築き上げてきた親父である。親父は私の父であるので父のことすなわち、我が家の主のことなのである。親父の人生を直視してきた私は今さらながらに尊敬と感謝の念に駆られる。
 親父は、疲れ果てて帰ってきても、次の朝にはもう会社に出勤しているのである。まさに企業戦士である。仕事をしなければならない責任があるから、そのすべての疲れを家族という中で吹っ飛ばしているようであった。家族で食卓を囲み、酒を飲み、煙草をスパスパ吸い続けながら、力道山のプロレスを一緒に見る。プロレスがないときは巨人戦のナイターである。私は勉強もせずに、テレビを観戦していた。
 親父は何も言わないのである。高校受験を目前にした私は、柔道に打ち込んでいた事を理由に、勉強の何たるかも実践していないのである。私立に推薦されると思ったが、外れた。すでに、学校の授業にはついていけないのである。昔は、成績が壁に張り出されていたこともあって最悪の状態であることは学年全体のメンバーが知るところであった。仙台で公立の普通高校は四校しかなかったので就職して働くことも考えていた。
 あるとき、酒に酔って寝ている親父をまざまざとながめた。野球中継が終わり、巨人も勝ち清々しく眠っているのである。それを眺めていた時、親父の生き様が自分の脳裏に映し出された。涙が溢れた。「俺勉強も頑張ってみる」と誓いを立てた。当時NHKで中学生の勉強室というラジオ放送があった。これしかないと思って、書店でテキストを買って飛びついた。一生懸命に聞いて問題を解いた。わからない状態を親父に察知された。親父は当時ナショナルのキロクターという名前のテープレコーダを肩に下げ買ってきてくれた。
 三十分の講義時間を録音して何度も何度も聞いた。五科目全部月曜日から金曜日まで耳にタコができるほど繰り返し聞いた。この一瞬を大切に過ごすのが貴重であると思った。
 人生の初めての勝負を挑んだ。学校の授業は全然うけ付けられなかった。授業中も中学生の勉強室の問題を解き続けた。繰り返し答えまで暗記した。自転車のペダルをこぎながら、前の籠には英単語帳、家では眠らないためにインスタントのコーヒーの飲み、一瞬の失敗が合格を阻むと受験戦争を勃発させた。受験の結果は担任の沼田先生の意に反していた。嬉しかった。