本部長通信344 2008年10月23日

極真空手道


(7)極真空手道の「心得」
 私たちの守るべき第一点は、品格の完成である。思慮、理解、弁舌といった精神的能力が目立たぬままに形成されなければならないのである。武道を学ぶものとしての本質は頭脳の優秀さはもちろんのこと、何よりも「英知」がたっとばれたのである。
 特に、武道の心構えを支える三本柱は、「英知」であり、「仁愛」、「勇気」であるとい言われた。ゆえに武士道を求めようとする者の本質は行動の人ということになる。空手を学ぶ者たるものは、その使命と責任に関係ある限り、学問を利用すべきである。宗教と神学は宗教者に任せるのである。勇気を養う助けとしてだけ、宗教や神学にかかわっていくべきである。
 武士道を求めていくと、財政を終始一貫何か低いものとみなしつける。道徳的、知的職務と比べて低いということを展開する。ゆえに、節約は武士道にとって訓練のための何物でもないと思えるのである。
 このように、金銭と金銭欲とは極力無視してきたので、金銭面からおこる極めて複数の害悪からまぬがれたのであると思う。貨幣万能といわれるこの時代に、今の制度は大切なことではあるが、金銭を離れてのみ、価格抜きでだけ、行われる仕事があることを信じているのである。すなわち、精神的な働きは金銭で返すのではなく、その仕事が計り知れないほど価値があるからと考えるべきではないかと思う。
 私が、ときあるごとに、師に金品を捧げるのは、支払いではなく、供え物としての意味合いであった。それで師が喜んで受け取っているものと信じた。何しろ師は清貧を誇りとして、手で働くにはあまりにも威厳があり、物乞いするにはあまりにも自尊心が高く、厳格な人と思えたからである。師は立派に見えた。どんな金品でも師に十分ふさわしくないと思った。およそ私が何かを師の足もとにおいても、それを私の善意のしるしとしか受取ってくれないと思った。それゆえ、その物事態の価値ではなく、印として受け取っているものと思った。善意の贈り物でも、それを師にとり十分良いと呼ぶのは、師に対しての価値に対して無礼になるだろうという気持ちでいた。私の贈り物をする精神はこの観点だけであった。