本部長通信343 2008年10月22日

極真空手道


(6)目上の人に対する忠従と忠節からなる「忠義」
 武士の名誉の掟において重要なのは、忠義の義務を負うということである。極真空手道において、人格的忠義こそ最高の美徳であると断言する。私たちが抱く忠義は、ほかの社会環境ではなかなか見当たらないが、極真空手道の考え方が間違っているのではなく、ほかの分野の社会の人たちが達成させることができないほど発展させているのである。
 お隣韓国では儒教の精神が確立していて、両親への服従を人間の第一の義務とした。日本人の場合は忠義に優越が与えられているのである。忠義の叫びの声への服従、上からの声の命令への従順である。武士道は忠義のほうを選ぶのに決してためらわないのである。武士の母親は、忠義のためには、男の子を捨てる覚悟ができるのである。戦前の日本は良くも悪しくも息子を戦場に送り込む忠義に生きた母親だったのかもしれない。
 間違ってはいけないことに、上の者の気まぐれな意志や、酔狂、道楽の犠牲とする人は、武士道の評価では低い位置しか与えられないのである。すなわち、無節操なへつらいでご機嫌とろうとする卑屈漢として、あるいは奴隷的追従によって、主人の愛を盗もうとする間男として、忠義らしきことは軽視された。
 私が特に忌み嫌うことは、心の中はずっと自分のことばかり考えているにもかかわらず、忠義の体裁と顔つきを装いながら、自分に繋がれている卑屈な鎖に巻かれてしまっている人の姿である。
 本当の武士道は自分の言葉の誠実を、おのが血を流して証明し、君主の理解力と心に最後の訴えをするのが、通常の道筋なのである。