本部長通信338 2008年10月17日

極真空手道


(1)心身一致が生み出す「義」
 極真空手道にあって、最も峻厳な教えがある。私たちにとって何が忌まわしいかといえば、師を裏切り、あたかも師の如くふるまって、曲がった企てや、後ろ暗い行動を平気で行えることである。「義」は例えて言うならば、人間の身体に骨があるがごとしである。骨なければ首も正しく据わらないであろうし、手も動かないし、足も立つころもできないのである。その人が、才能があっても、学問があっても、「義」なければ、世の中に立つことができないのである。
「義」は、孟子いわく、人が失った楽園を回復するために探るべき道であるというのである。赤穂浪士に見るまでもなく、封建時代の末期においてさえ、義士という称号は、学問や芸術の達人を意味するような称号よりもすぐれたものとして考えられたのである。我が国の教育において昔、四十七の忠臣は、日本人の心の教育に大いにと尊ばれたのである。
しかしながら、狡猾な策略とか、戦術が通用し、露骨な偽りがまかり通りやすい時代に、突入しているのである。極真空手道の修業半ばで、何かしら勘違いする輩が生まれてしまうのは悲しいことです。「義」という率直で、男らしい美徳は、もっとも光輝く宝石であり、最大の賛美を受けるべきなのである。義の世界も極真空手道の稽古によって心身統一における強い意志によって実現されるのである。