本部長通信335 2008年10月14日

極真空手道


(二)極真空手道における人間観
極真空手における人間観は、本来の人間を目指す求道者としての人間であることを主張する。それは、一人ひとりが不完全であるがゆえに本来の自分の姿を求め続ける道程である。それを、空手道という修行の道ではあるが、稽古という手段を通して、一定の修業から、人それぞれ年数は違うが、本然の自分を探し求めていく道である。
その人間とは、解剖学とか生理学に詳細に記されている通り健康な状態の人間であると同じく、説明はなかなか難しいが、精神面で健康な状態の人間を言うのである。
それゆえ、稽古で肉体を研磨し、逞しい精神を確立する努力を日夜実践し続けるのである。
伝統派の空手は、いつも正当性があるかどうかが論拠の的であった。「この流派は沖縄
の・・・・開祖何流19代目の秘伝書である」という神秘的なものの言い回しと、異様
な雰囲気を醸し出していたものであった。しかし、格闘技がテレビで放映される今日は、
強いか弱いかあるいは、良いかどうかが焦点になっている。現代の風潮は、試合に実際出
場して強くなければ認めない時代に入っているのである。
 今まで日本の空手道は、あまり直接的な試合をしない。試合をせずに、派閥だけを拡張して静かな闘争を続けている。空手のような格闘技を試合で決着させるということが非常に説得力を持つようになってきているのである。稽古の結果をすぐに検証できる時代なのである。
 テレビで放映される真摯な姿に空手の正当性を人々は問うようになってきているのである。第一の正当性とはまず強くなければならないということなのである。この強さは非常に説得力を持っているのである。その意味では空手の真実な姿に人々は、気がつき始めているといって過言でない。本来的人間の姿、あるいは空手道の結実を正しく見る時代に入っているので、修行者としての私たちは、本来の自分探しを自他共に認める内容として納得して道を究めることができるのである。