本部長通信212  2008年6月14日

何故極真空手を習うのか(10)


極真理想と犠牲
 極真理想は、総裁から頂いた伝統を先輩から後輩に受け継がれていくところに、原点があります。先輩が後輩を指導するということは、言葉を変えて言うならば、絶えず先輩がモデルとなって犠牲になるということであります。年齢に差はありますが親が子供に尽くすようなものです。選手たちは気づかないのですが、全日本空手道選手権大会においても、一生懸命準備してくださったスタッフがいたから選手は評価を受けることができるのです。
 スタッフは、極真の理想に対して、犠牲になったとしても、何の苦労も感じなくなるのです。極真選手を応援するのだから、極真理想がその中に秘められているのです。いくら時間と労力を投入したとしても、苦痛を感じるよりは極真理想が返って戻ってくるようになるのです。極真理想は投入すればするほど、それが10のパワーであるとするならば、選手が頑張っている姿があるならば、スタッフはそれ以上の刺激を受けるようなるのです。仕事をした以上に喜びの刺激を受けるのです。
 ちょうど、恋愛ドラマのような関係であるのです。男女が愛するものに対して、どんなに犠牲になったとしても、自分の命をかけても、喜びを感じるのです。それは、愛すればこそ、自分のすべてを投入して、そこに喜びを無限に感じるのと一緒なのです。極真理想は、自分が苦労したよりも、強いパワーとして自分に戻って刺激となるから、喜びを感じるようになるのです。
 極真理想があればこそ、準備して苦労したとしても、たとえ消耗する立場であるとしても、喜べるのです。現実の世界ではなかなか実感することの少ないことなのですが、極真理想はそれを感じさせてくれるのです。
 何故極真会館にはそれができるのでしょうか。極真理想がなければ、戻ってこないのです。スタッフと選手がともに、信頼する関係には、永遠な絆が生まれるのです。永遠なものは、極真理想に他ならないのです。ゆえに、パワーの中にすばらしい何かがあるのです。極真理想は力学的な立場を超えているのです。入力より出力が大きいところに極真理想はあるし、輝いているのです。