本部長通信211  2008年6月13日

何故極真空手を習うのか(9)


 極真空手を中心とする理想
創始者大山総裁を中心とする組織は、当然縦的関係になっているのですが、分裂によって縦的関係に亀裂が入ってしまったのです。それゆえ、弟子たちの相対圏が一致したレベルに到達しなくなったのは残念で仕方がないのです。もしも総裁が生きていた場合には、横的な立場において総裁の意思が弟子たちの相対圏として生まれてくるはずだったのです。
 総裁につながる極真空手の理想が実施され、弟子たちに横的に共に同参する立場であれば、ともに、同じように適用される環境を持てたのです。総裁と弟子たちの相対の理想が成り立ってゆく道が成り立ったのであります。縦的にひとつになったのちは、必ず横的にひとつになる道があるのです。
 弟子たちの存在は、総裁の理想を中心として、世界を相手に、活躍したのです。弟子たちの存在によって総裁の理想を果たせたことは間違いないのです。弟子たちがいなければ、実際に世界に繁殖する道はなかったのです。極真の理想を実現するためになくてはならないのが弟子たちの存在だったのです。
 総裁と弟子たちがひとつになった場合、共に主体・対象の関係なっていったのです。これによって、総裁が築いた精神的極真理想は世界に対して実体的に展開されていったはずなのであります。総裁と弟子たちがプラスとなって、世界の国々のマイナスの地域に、極真の理想が伝播されていったに違いないのです。それゆえ、プラスとして投入した以上に総裁を中心とした弟子たちを刺激したことは予想することができるのであります。
 その刺激の基準が、極真会館の発展へと大きく戻ってきたはずであります。極真会館にいる宮城県本部の師範としは、果たせなかった総裁の遺志をどのように果たすかと苦悶する日々が続いているのです。低次元な、町道場的発想をしていたならば、極真の理想は終わりを告げてしまいます。宮城県本部から世界にどのように理想を発信させていくのかがこれからの課題であることは間違いないのです。