2020年3月24日(八段語録3712)
名前と「誇りと罪」


 親が付けてくれた名前には、誰でも誇りを持っているのは当然の事であります。人間としての誇りは、名前にも付随しているのです。それは両親の息子であるという事の誇りにつながっているのです。また、我が家で育てられ、一家団欒の時を持てたという事に、誇りを持っているのです。そして、その家族の愛情に包まれて、青春の旅立ちで、極真会館に導かれたという事の誇りにつながっているのです。
さて、極真の修行を始めてからは、強くなることを誇りとしたのです。それだけに、自分の誇りを高めるために、現状に留まることなく、無限に広がる欲求は知識欲につながっていくのです。当然、自立するという事を目指したのであり、誰にも束縛されることなく、自由でありたいという気持ちが大きくなって、この自由が人生最大の誇りという事なのです。ですから、そのような自分の誇りが限りなく広がっていったのです。
ところで、今の心境はというならば、全て包括されて、誇りというよりは、その誇りの全てが、取り除かれているという気持ちになるのです。どのような気持ちで取り除かれたかというならば、親のような感覚になって、社会を眺めているからという事でもあります。親というのは、あまり誇りを意識していないという事にも気づかされるのです。今までの付け加わって誇りとして求めてきたことは、今では余計なものになっているのです。やるべきことは全て取り組んできたという事でもあるのです。
もちろん、まだ成すべきことは、無限大にあるのですが、誇りを気にするという事は無くなっているようです。逆に、自分の人生で「どのような悪い事をしてきたか」という事を振り返ると、思い出すことが出来ないのです。最近の悪い事をしたという事は、覚えているのですが、昔の悪いことは、地の果てまで放り投げてしまっているのです。私の罪というべきものの解決方法は、忘れてしまうというという処理方法なのです。ただ、私自身の信念として、勝手に「男女関係」は結ばないという事と、精神的にも肉体的にも「人を殺さない」という事を心掛けてきたのでした。この点に関しては、潔癖なのです。
そのように生きているという事は、誇りと罪を「忘却の彼方」に放り投げているという事です。それを、勝手に私の名前のお陰であると思っているのです。今という瞬間に全てを投入するという事で、過去と未来のわだかまりをすべて捨て去って身軽にしているのです。過去と未来は痴ほう症として片づけて、今に全てを投入するという作業をしているのです。それだけに、今が義の道であるという、名前通りの人生という事だと勝手に思っているのです。