2020年3月23日(八段語録3711)
私の名の由来
自分の名前を見て、未だに不思議に思うのです。その名は、義とされる道を行くという事でしょうか、それとも、義と認められるように歩むという事でしょうか。どちらにしても、どう自分を分析しても、現状は義が本質であるという事を宣言するには、憚ってしまうのです。この名は、ただ両親から義である道を進めという事を宣言されているという事と思っているのです。実際に少年時代名前に関して感じたことは、私にとって重荷であり、いじめの対象という事でありました。というのは「ギドウ」というように呼びつけにされて、友達が上から目線という事でもあったのです。また、それを変形して「ゲドウ」という名前まで付けられたものです。気持ちの悪い事が多かったのですが、今は感謝しています。実に啓示のような名前です。生まれた時、曹洞宗の檀家の当時の住職が「義道」という事で、それを頂いたという事でもありました。
さて、この名前を頂いて、信じた道をまっしぐらに行くという事を心掛けたものです。また、極真のみを走り続けたという事でもあります。さらに、道場生同士、上下関係ではなく、家族として、お互い尊敬するという姿勢を選択したのです。その結果が現在の私の状態を保っているのです。極真の修行時代は、全国を流浪しながら、自然の中で啓示のような悟りを受けたものです。それが、修行が進み有段者になってからは、心身が磨かれ、良心から光を放つようになってきたのです。指導者になったからは、指導を実践で言葉と技でするものですから、指導そのもので、光を発していたように思うのです。極真の修行をすることによって、更なる磨きがかかり、自分の名前に相応しい道の選択をしてきたのでした。
ところで、名無しの権瓶では、存在価値を表すことはできないのです。要するに、名前は世界を往来するためのパスポートの役割を果たしているようです。この名のゆえに、極真の道を選択することができ、栄光の輝きを発するというものです。私が義の道を歩めるのは、極真の道を究めようとしているからなのです。つまり、私の名前の通りに歩めるのは、極真空手が土台になっているのです。さらに、稽古そのものを無条件に継続しているからという事でもあります。試合には、今では出場しませんが、常に現役で稽古するという姿勢を崩さないのです。今まで極真の道を継続することができたのは、両親のおかげであり、家族の協力であるという事は言うまでもありません。
結論として、私の名前の結果、義の道を歩むという意識に変わって、極真の道を継続してきているのです。それは、五十年という長きに渡って、決して留まることなく、前進してきた結果なのです。長い修行のような日々を、決して迷うことなく歩み続けてきたという事であります。それだけに私に名前を付けてくれた両親に感謝すると同時に、これからも精進していきたいと思うのです。