2020年3月21日(八段語録3710)
極真空手の門を叩いた理由
私が中学生の時、柔道部に所属したのでした。当時、勉学に励むよりは柔道に熱心に取り組んだのです。理由は、新聞配達をして家の家計を支えていたのです。朝起きて寝床から起きると、とんでもない現象が起こっていたのです。性の目覚めという事を突き止めるまでさほど時間は掛からなかったのです。図書館でこの事は何であるかという事を医学事典で調べたものでした。この時、体の欲望のままに汚れに引き渡され、はずかしめるようになってはいけないという自覚をしたのでした。肉体を疲れさせるという理由から、柔道に打ち込んだという事になったのです。
高校に入学すると、幼なじみの女の子に対しても、正常な気持ちではなくなり、自然に距離を置くようになったのでした。理由は、不潔な着物を着ているようにさえ思ったからです。それで、性の性質に虜にされるか、脱却して新しい世界を見出すかという事を自問自答したのでした。読んだ書籍の中で、ユダヤ人は生後八日目で陽部を切って割礼をするというのです。要するに二者選択の中で、性からの脱却という事で、ユダヤ人のように陽部を切るという事ではなく、極真で血を流す理由で、門を叩いたのでした。ユダヤ人は、一回の割礼という事ですが、私の場合、道場の組手で、全身が割礼状態になって、肉体の痛みゆえに、心の神聖さを保ったという事の結果を導き出したのでした。
ところが、極真の門を叩いてからも、恥ずべき情欲が日々迫ってくるのでした。二十四歳になると、今の妻と婚約したものですから、なおさら、自分の人格を疑われないように努力に努力を重ねて、稽古に熱中していったのです。結果的に結婚までの十年の歳月、自問自答して、納得がいく人格を見出す為に時を過ごしたことになったのです。要するに、正しからぬ思いを払拭する日々だったのです。無価値な思いに引き渡されないように、全日本のオープントーナメント目指し、アスリートとしての道を重ねていったのです。一日数時間、それを三百六十五日、それを全日本の試合三分に全てをかけるという鍛錬を三十四歳まで続けていったのでした。
極真の門を叩いた理由は、親から教えられた倫理観をベースに、正しい生き方を選択しようとしたのです。真実な生き方を偽りには代えてはならないという気合で、稽古にのめり込んでいったのでした。決して正しい道の選択を放棄しようとは思わなかったのです。正しい生き方は、自然界を見ると一目瞭然で、自然の森羅万象から多くのヒントが与えられるものです。それだけでなく、人類の遺産ともいえる書籍からも多くを学ぶことができました。その結実を極真という稽古で消化してきたというのが偽らざる人生でした。人は罪の性質に仕えるように、放置されているように思うのです。それだけに、罪と戦ってきた人生でもあると思っているのです。性から解放の方法は、問題の本質を知り、新生可能な状態に日々訓練することだと思うのです。