2020年3月20日(八段語録3709)
極真への誘いに感謝
私の不快感は、対人関係で生まれるのですが、それだからといって、復讐心を持つという事はしないのです。どちらかというならば、その人の成長を願うばかりになるというのが偽らざる心境なのです。行き詰って対立しようものならば、私自身の愛情の中で消化するのです。ある人の話を聞いていると、自慢げに語る内容は、「便所の汚水を美味しい」と飲料しているかのようなのです。もちろん、パワハラもあり、人のプライドを傷つけるという事を平気でするのです。その人を観察すると「不義をもって真理の働きを妨げる人間」になっているように映るのです。結果を押さえつけているようです。それだけに彼は疲れているようです。
さて、多くの人に対して、どのように私は対処するかというならば、人は最高傑作作品に創造されているという事として最大限敬意を払うのです。人の素晴らしさを感じて、長所を発見する努力をするのです。人間には、相手の素晴らしさを認識する能力があるという事です。また、人は無限な力があると確信して接するのです。もし、それを押さえつけて自分勝手に取り扱うとするならば、意図的にロボットのように操作するという事に等しくなるのです。それはまさに、人が勝手に人を裁くことができるという事に等しくなるのです。もしそのように私が振舞うとするならば、人の素晴らしさを知っていながら、意図的に淪落のステップを踏み下っていくのです。
ところで、私は、極真の道を歩み続けることができるという事に感謝しているのです。というのも、生命と祝福の源泉のように、自らの肉体と精神を自由意志でコントロールすることができているのです。それによって、真っすぐに純粋に歩めるような道を究めることができているのです。この道を究めるという事で、自己中心になることが少ないのです。また、空しい思いにふけることはないのです。日々心身を鍛えているので、すべての事で理解力が研ぎ澄まされ、何事に関しても論じる力が増し加わってくるのです。それだから、大山総裁を尊敬すると同時に、指導を受けたことに感謝しているのです。また、手塚会長とは、毎日のように話すことができ、豊かな人格の触れ合いに感極まることもできたのです。
結論として、極真に出会わないで、人生を閉じるようなことがあるならば、どうであったかと問い直すのです。人生を棒に振っていたのではないかと思うのです。究極、滅びていたかもしれないのです。たとえ道徳的だとしても勝手に生きていたとするならば、意図的に自分の人生を押さえつけていたかもしれないのです。不思議に、人は導きで天命を与えられるものです。極真という道を示され、更なる啓示のように人生の行くべき方向まで与えられたという事であると思っているのです。私の使命感を感じる背後に、正しい道が備えられていたという事と思えてならないのです。日本と世界を股にかけ、極真空手の宣教師として人生を送れたことに感謝しかないという事です。