2020年2月28日(八段語録3701)
共感を呼ぶ手塚グループ
一般的道徳事項において、積極的命令と禁止命令が半々のような気がします。その理由は、古典を読んでみると、どの古典でも道徳的指示が偏ることなく半々なのです。もう少し踏み込むと、禁止命令が少し上回っているようです。そこで、積極的命令から選択し、一番大切な事はという事を、問いかけると、武道団体ですから、「極真を最大大切にする」という事に帰結するのです。それも心を尽くし、思いをつくし、知性をつくし、力を尽くしてという事なのです。ですから、技術面でも、精神面でも真剣に学ぶという事で、「極真を最大大切にする」という事になるのです。そうでなければ、極真を無視して自分勝手な流派を立ち上げることも可能になってしまうのです。
また、私達は道場を中心として稽古をするのですから、道場生同士お互い励まし合い、共に修行の道を進めていくという事を願うようになるのです。そこには、まさしく、道場生との信頼関係が大前提になるのです。独りよがりの稽古をしていると、チャンピオンになっても誰も喜んでくれないし、切磋琢磨をすることもしないのです。自分を大切にするように、道場生一人一人と信頼関係を結ぶという事が積極的に願われるのです。道場に来ずに、一人自主トレをして強くなったとして、永続性があるかというならば、道場というコミュニティでつまはじきにされるだけなのです。それでは、稽古をやっている意味がないのです。この点を誤解して去っていった道場生もいましたが、伝統に則っていない稽古は、萎れてしまい継続すらできなくなるのです。
ところで、この極真と道場生同士を大切にするという内容をしっかり身に着けるとするならば、道場が楽しくて仕方がないのです。まさに道場が楽園であるかのように、継続していきたいという思いに駆られるのです。それだけに、大山総裁から手塚会長そして、私につながった伝統を重んじるのです。途中で途切れてはいないのです。どんな状態に手塚グループが置かれようとも、伝統を継承しているという事に誇りを持つというのが私の発想なのです。要するに、極真の伝統に則って道場生の信頼関係から世間の良い評判につながっていくと確信するのです。極真への愛情と道場生同士の愛情が相乗効果として現れて無限の広がりを持つというものです。
結論として、道場生同士の信頼を持てるという事が、極真に対する愛情につながるというものです。もし禁止命令を強調するならば、自己愛でもって極真と道場生に接してはいけないという事なのです。それだけに、心を開いて稽古をすることのできるのが手塚グループであると主張するのです。私が誰かと質問されたならば、大山総裁のもと、本部で稽古してきた道場でいであるというのです。決して自己愛に固執していないのです。私自身、自己愛に焦点を合わせることを禁じているのです。それだけに、極真を愛し道場生を愛するという二つの掟を自分の心に戒めているのです。