2020年2月24日(八段語録3697)
心身の投入は一粒の麦


 道場生は、向学心があり、吸収しようとする気持ちで道場に通うのです。道場生の吸収力は、エネルギーの塊のようなもので、光を放っています。
それに対して、指導者は投入するという事で対応するのです。何を投入するかというならばば、人生のすべてを、全身全霊で人生道のすべてなのです。私の場合、五十年に渡って学んできたエキスを投入するわけですから、消化不良を起こすほどの濃縮されたものなのです。それだけに、一日だけでは学ぶことはできないので、継続して道場に通うという事になるのです。その結実が、弟子たちという事でもあるのです。目に入れても痛くないという事です。
道場生に多くの実りを収穫させるために、「自我に死す」という事が、指導者の役割になるわけです。そんな気持ちで、指導者は立つのですが、それは容易なことではないのです。それだけに、指導者の心は、常に騒いでいるのであり、暗中模索の連続という事にもなるのです。指導者が心から喜ぶことができるのは、道場生一人一人に栄光が現れて輝くことです。弟子たちは、素晴らしい才能を発揮しようとしているのです。極真空手に留まることなく、この修行を入り口として多方面にわたって活躍する人材なのです。
ところで、指導者と道場生の間には、隔ての壁があるのです。それは極真空手の経験値という事でもあるわけです。それが、指導者の無条件の愛情の指導でもって、その壁を埋めていくのです。日々の稽古はというならば、隔ての壁を壊していく道場生の修練所という事になるのです。壁を打ち壊し、指導者と道場生が一つになる時に、新しい生命が蘇るというものです。当然のことながら、道場生が成長していくには、指導者が一粒の麦として、死ななければならないようです。というのも、命がけに投入するという事が、指導者の命題になるのです。有難迷惑にならないように、サポートするわけですから、死に方にも工夫があるのです。
それは、まさに超自然的な事のように思えるのです。合理的な説明はできないのですが、道場生は間違いなく成長して、指導者を越えていくのです。若きエネルギーには目を見張るものがあります。またそれが指導者の楽しみでもあるのです。もちろん、心が動かないで、途中下車してしまう道場生もあるのですが、なんともすることもできず、もちろん強制することでもないのです。間違いなく、一つの麦が多くの実りを広げていくというのが、指導者の醍醐味であることは間違いない事です。
私自身、投入して生きてきた人生という事でもあるようです。それなりに花を咲かせて人生を送ってきました。人としての在り方でしょうか。極真を広めていくという事は、一粒の麦になるという事でしょう。これからもこの人生を続けていこうと思うのです。