2020年1月27日(八段語録3694)
道場生に対する警告
このような警告を表現するのは、道場でマンネリ化しつつある、道場生に対する励ましであります。極真の道を全うするには、理想と夢を映像化して、希望を持って実現するという意志力が必要であります。何故ならば、稽古は単純な動きを続けていくからです。最初は新鮮に基本・移動・型・組手を行いますが、自己の理想像を喪失してしまうと、無目的のままに続けるようになり、飽きてしまうのです。私自身、その事をよく知っています。それで、若き青春時代から継続してきた私の経験を踏まえて、稽古の継続への招きと、稽古を中断することによる警告を発しようとするのです。
かつての私は、日々の稽古を欠かすことなく続けてきたのです。道場の稽古は、本部では朝の十時から行い、十六時半からの稽古に至り、最後は十九時からの稽古で終了するという事を重ねてきたのです。一日の生活スタイルが空手漬けという事で、その姿勢が今を支えているという事になるのです。全日本に出て試合をする選手だったので、当たり前のようにスケジュールをこなしてきたのです。世界一強い人間になろうとする意識ですので、願望が強く燃えたぎる情熱で心は満たされていたのでした。その稽古で、自分を見失う事があったかというならば、無いのです。理由は稽古が実に神聖であったからという事でした。
ところが、私の修行時代に多くの同年代の道場生が、一人また一人と姿を消していくのです。
私にとって、極真空手は、大学という学生も捨てて取り組んだという事もあって、背水の陣を引いていたので、決して生半可な気持ちにはなれなかったのです。それに引き換え、多くの道場生は、最初稽古を好んで励んでいましたが、世間の誘惑に負けて続けなくなるのです。一つは酒であったり女性であったりという事です。楽な道を選択するようになったのです。
そうすることによって、自己を正当化して結局のところ、稽古への反旗を翻して道場に通う事に価値を見出さなくなるのでした。結局のところ、願った理想や夢を獲得することができずに、去っていったという事なのです。時々元道場生に合うのですが、稽古を続けておけば良かったと反省の弁が口から出るのを聞いてしまうのでした。
私の場合、極真空手を登竜門として夢の実現を果たしたという実感があるのです。常に心が迷い悩んでいたとするならば、決して極真の道を究めるというところには至らなかったのです。極真は絵に描いた餅ではないのです。それだけに極真から離れるような誘惑は避けなさいと訴えるのです。「今日」と言われる間に、自分を励まし、この道を全うできるように努力するという事を道場生には願うのです。心を頑なにして道場を去ってはいけないのです。「今日」とは道場生として忍耐が続いている間という事なのです。つまり「今のこの時」なのです。互いに励まし合って極真の成長を求めるべきであります。そういうわけだから、心して私の警告を受け入れて、目指す目標に向かって夢と希望を描いて下さい。