2020年1月3日(八段語録3685)
稽古の形が栄光を掴む


 極真空手は、稽古内容を大事にするのです。準備運動から始まり、「突き、手刀、受け、蹴り、移動稽古、型、組手」となります。要するに、極真の強さの秘訣は稽古にあるのです。
この稽古を怠るようになると、強さから追放されるようになるのです。それだけに、極真の稽古は、道場生が生活に応じて、光放つオーラを持つという事ができるのです。この稽古は、道場生に生きるための指針を与えるのであり、強くなる方法を教えるのです。この方法によって、栄光と理想を手に入れる事ができるのです。そして、極真の修行の目的は、強さが宿る肉体を通じて栄光の道を模索するのです。
さて、私自身確かに年齢が高くなると、一般の稽古というよりは、同じ稽古量をこなすのですが、なるべく時間をかけて消化するのです。そのような意味では、稽古内容が年齢によって変化するという事はいがめないのです。今日は稽古に対する一般的な解説をするという事になります。稽古という時間を過ごすと、心身が真水のようにろ過されるようです。稽古の細部までこだわりを持つと、稽古の裏付けをするという事で、強くもなり自信に満ちてくるのです。それは、私の五十年に渡る稽古で実証していると思っているのです。
ところで、稽古してきた実績は、決して偽らないのです。それが証明されているかのように、人材が育っていくのです。ようするに、稽古が空理空論ではないという事でもあるのです。私自身、道場生の稽古の姿を見て感動するのです。また道場生から、元気をもらうという事にもなるのです。そのような意味では、私自身、稽古をしている現場には、いつも関心があるし、一緒に稽古をしているという気持ちが湧き上がるのです。稽古の様子は、私に対して心の変化をもたらすのです。道場生の稽古と共にあると、力と栄光に満ちて来るし、決して死なないという気持ちにもなるのですから不思議です。
結論として、道場での稽古は、道場生が向上心を持って、一緒に汗を流すというところなのです。それだけに、道場は大切であり、神聖な場所という事でもあるのです。そういう意味での神聖さは強調されるべきであり、道場生が集うという家族でもあるのです。そして、道場生は定められた場所と時間を守って、稽古に専念するという事になるのです。それだけに、極真精神がこもった稽古が求められるのであり、確かな伝統として安置されるべきものなのです。それが、手塚グループの稽古の形なのです。
それだけに、強制されて稽古をするというのではなく、心から進んで、自らの意志でもって対応するのです。そうすると、地位とか名誉とか経済力と関係がなく、多くの極真精神を受け取ることができるのです。要するに自発的であるかどうかだけが、栄光に輝けるかという事を決定するのです。結局、稽古を続けていくと、肉体に素晴らしい精神が宿るという事を稽古は、実証しているのです。