2019年12月28日(八段語録3681)
極真空手の生活応用


 極真空手は決して消滅することは無いという信念を持つという事は必要です。
それ故に、極真での稽古は、日常の出来事の整理に役立ち、極真を信頼する者を決して失望させるという事は無いのです。それだけに、稽古にいそしむことによって、学業の向上はもとより日々の生活を守ってくれるのです。また朽ちない肉体を強靭なものにクリエイティブすることになるのです。それ故に、日々復活する人生であり、希望を投影することができるようになるのです。そのように実生活に応用しなければ、価値は半減してしまうという個のです。
さて、最近感じることは、防犯カメラがあり、ITがサポートしているのであり、監視にもなっているという事です。すべてが公になっているという側面はいがめないのです。その上で、試練が待ち構えているとき、自らの姿勢を正すという事で、乗り越えて行く希望があるという事でなければならないのです。中国では人民を監視するために、ITが活用されているようですが、極真の稽古をする私達は、このような現代文明を自己管理の為に今の英知として活用するのです。
稽古で学ぶ精神は、試練の時の慰めであり、警告にもなるのです。人生でいかなる状況下にあったとしても、極真の稽古の延長を体験し、その試練を楽しむことができるというものです。また、極真の稽古をするものは、稽古は神聖なものだけに、自らの生活において、神聖な選びと行為を追及していくという事になるのです。このような事は、極真空手が用意する方法でもあるのです。もし、誤った道を選択した時、私を訓練し矯正し、正しい道に連れ戻してくれるのです。そのように極真の精神は、偉大であると確信しているのです。
このように、極真空手の稽古は、修練をする私達に対して不平等に取り扱うという事はしないのです。それ故に、自己弁護に走ったり、仕返ししようとすることは無益という事なのです。
極真の稽古は、全てを背負ってくれるという事を信頼して、日々鍛錬して欲しいものです。
結論として、積極的に日々の稽古を実生活に生かすという事が、私の望むことなのです。
単に極真空手をしているという事ではなく、人生全般に活かすという作業は必要なのです。
人生の重荷は、稽古と共に、汗に流すという事ですべてが軽くなり豊かになり、さらに栄光をもたらすということになるのです。