2019年12月26日(八段語録3679)
極真空手の恐ろしさが謙虚さを生む


 極真会館に入門して、最初に実感したことは、恐怖でした。稽古は、実際に突きと蹴り身体を襲うのです。実際に痛みが襲い、組手そのものに恐怖を覚えるのも無理なからぬ事でした。
それでも、私は、同意して入門誓約書にサインして、修行を出発したのですから勇気があったのだと思うのです。
私自身、入門一日目で恐ろしい光景を目撃したのでした。組手で血が吹き飛び、人が倒れる光景は、自然の情景に照らし合わせるならば、雷と稲妻が鳴り響いて天地が割れるという感じなのでした。この組手の光景に一言でも加えて欲しくないという気持ちになったのです。
人が組手で撃ち殺されるような気持ちになったのは言うまでもありません。
実際、組手の光景が余りにも恐ろしかったので、私は、入門を決意しながらも恐れて震えていたのでした。
これが、最初に私の記憶に刷り込まれているのです。このように表現は、今の道場生には理解することはできないことかもしれません。この時の私の状況は、繰り返すのですが、たじろみ、入門するに恐怖だけしか思わなかったのは言うまでもありません。
それでも、自分の人生を甘やかしてはならないという天啓のようなものが降り注いだ青春でしたから、極真への入門は、清水寺から降りるような心境で飛び込んだという事です。
それだから、極真の権威を感じ取ったのかもしれません。当然、弱い自分を見出したことは言うまでもありません。逆にこの内容を身に着けたならば、栄光の自分が存在するという事かもしれないと考えたのも無理なからぬ事です。そして、私の対応は、恐れてはならないという気持ちを持って、強くなることだけを目指して修行を始めたのでした。
自分で言い聞かせた事は、恐れることは無いという事でしたが、その恐れは、日々の修行の糧になるという信条に変わったのでした。ある意味で健全な恐れであったのです。
その恐れが、日々の修行の精進の原点になったともいえるのです。
そして、修行を五十年近く歩んだ私は、道場生との仲介者となって、道を示す立場に立っているのです。苦しい修行の中に、極真の栄光が輝いているという事を道場生に伝え、導くという事であるという事です。ここに極真の権威があるという事は言うまでもありません。
池袋の総本部で、多くの道場生が中途挫折するのを見てきました。そして、極真を止めてしまうのです。その記憶があるだけに、今の道場生に正しく導く指導力が必要であると思うのです。また、安易な道を求めて、肉欲だけの男女関係や酒タバコに走って、自己破滅の道を行った人が数知れないのです。
結論として、恐ろしくもなければ、謙虚に修行もできないという事かもしれません。