2019年12月24日(八段語録3677)
極真手塚グループの入門誓約書の構造(3)人材を殺すな


人を傷つけることなく、「生命の尊厳をしっかり守って、お互いが努力しなければならないのです。
入門する者は、精神的にも肉体的にも傷つけてはならないという事を肝に銘じなければならないのです。はっきり断言するのですが、稽古でなく感情的な裁きであるならば、精神的殺人に他ならないのです。裁きが裁きを呼んで泥沼に陥っていくのです。
さらに、個人的な理由で、故意にイジメのようなことがあるとするならば、とんでもない事です。
当然、ブランチチーフや指導者、そして道場生が、苦境に陥って、自分で自分の生命を絶つという事は、決して許されることではないという事も付け加えておきます。
逆に手塚グループは、家族がベースになっていますから、家庭を壊す要因ともなる不倫や浮気等は、許されることではないのです。基本的に裁きを受けなければならない領域に入るのです。夫婦にとって不幸であり、子供達にとっては尚不幸極まらないという事になります。
例え事件に巻き込まれて、血の復讐に値するとしても、法律に委ねるという事を願うのです。
もし、指導者や道場生の中で、他派に先導するような者がいるとするならば、裁かれなければならないのです。確かに、今まで手塚会長は、砂をかけて出ていく者に関して、放蕩息子のように思って、また帰ってくるからという事を口癖に語っていたのでした。私の場合、手塚会長のような心が広くないので、最近は、まだ帰ってくるという気持ちにはなれないのです。実際、先導して出て行った道場生で、戻ってきた人は皆無なのです。最近の私の心の狭さを反省するのですが、入門の時に誓約した内容に合わせて裁かなければならないのです。
ところで、道場生の数が増えてくると、腹を立て誤解をして、裁くような事が多くなるのです。それだけに、お互いに愛情を持って、対処することを望むし、裁いてはならないと宣言するのです。それはまさしく精神的殺人に匹敵するのです。未熟な道場生に対して、「能無し」というような表現をするとするならば、「能無し」と言った道場生に対しては、私に引き渡され、禁足処分にしなければならないのです。また、馬鹿者呼ぶ指導者は、追放になるという事を肝に銘じていかなければならないのです。
結論として、手塚グループは、道場生同士心の在り方を扱うのです。
道場生を憎む者は、人殺しであるという意識に立つのです。
道場は家族でありますから、お互い成長して人格を高め合うという事に道場での稽古の意義があるのです。手塚グループに於ける入門の誓約書の構造は、そのよう事を主張するのです。そのように、裁くような精神が心を満たすとするならば、裁きから愛情に変質することができるように、自己修行をすべきであるという誓約書であることを、心に留めていかなければならないのです。