2019年12月21日(八段語録3674)
極真空手の側面


 一つに、極真空手は精神と肉体を鍛えるので、ただ強さを求めるだけのものではないのです。今日の精神と肉体のコンデションを整えていくうえで大切な役割をするのです。
それだけに、極真の稽古を行えば素晴らしくなるというのは、方法論であって、稽古が最終目的ではないのです。あくまでも、精神と肉体のコンデションを維持して行くために稽古は必要であるという事なのです。というのも、極真に入門したという時点で、時間はかかろうとも、理想の極真の実体を目指して前進しているという事を意味しているのです。極真に入門したことによって、日々の稽古は与えられ、目指すべき理想の自分を描いているという事になるのです。極真空手の場合、稽古のみによって、成長するプロセスが描かれているのです。
二つに、極真空手は神聖なのです。つまり稽古は神仏の守りの中で、相手を傷つけたり、侮辱したりするものではないのです。礼に始まり、基本稽古から移動稽古、型そして組手に移行して、最後は「礼」で終わるのですが、全てのプロセスにおいて神聖に行われていくのです。武道ですから、人として外れたことは決して行えないようなグループになるのです。
三つに、極真空手は日々の行動基準になるのです。私が、極真空手に五十年近く籍を置くと、もうすでに、極真空手に所有されているのです。そのような意味では、いつの間にか特別の存在であるかのような気がするのです。要するに極真空手という存在の所有物という事にも思えてしまうのです。その極真空手が良いので、新たに道場生を入門させ、極真空手を繋ぐ役割をするに至っているのです。それだけに、極真空手に入門した者の行動基準は、創始者や手塚会長、そして私が模範となるのです。
四つに、極真の修行は継続を意味するのです。私は道場生の養育係なのです。この手塚グループが理想であるのは、奴隷を作っているのではないのです。稽古をさせ、大会で優秀な成績を治めさせ、道場の広告塔になるというものではないのです。一人一人が、自分の能力を開花させ指導者として、世に送り出すのです。それだけに、極真手塚グループは、継続していかなければならないのです。世界の指導者を育成するという大きな夢と理想があるのです。私自身の思いとしてはこれから何千年も続く団体であるという確信の上に立っているのです。
結論として、このような側面を持っている極真空手だけに、道場生と極真との関係をしっかり持って欲しいと思うのです。それだけに、道場生が入門してからどのような行動基準を持つかという事が大切なのです。この極真空手手塚グループに相応しい人材の輩出を目指してさらに精進することを誓うのでした。