2019年12月10日(八段語録3663)
稽古継続の意味


 入門して稽古を継続していると、様々な誘惑と怠惰が襲うものです。
入門当時や選手時代は、帯の級を上げるという事と、大会があるので頑張るのです。
もちろん、黒帯を取った時には、プライドが芽生えて、大会では負けられなくなるのです。
特に、帯下の選手や他流派の選手には、敵愾心をもって望んだものです。(幼いですが)
極真は強いという理念や、入門したからには、強くなれるという意識が深くなるのです。
極真に入門したからには、地上最強という称号が目にちらつくようになるのです。
日々の稽古は、極真との強さへの「契約」が成就するという事であると思ったものでした。
要するに、「約束」を信じるという純粋な気持ちが、日々の稽古を覆ったのでした。
さて、私の青春時代は、修行僧のように強さの限界を求めて日々を送ったものです。
その体験が、今の私を支えているという事もあり、新たな境地を開拓することにもなっているのです。
人生の原点は、若き日の修行時代にあるという事は、間違いない事実と映るのです。
極真との「約束」を信じて、今も人生を送っているのですから、単純といえば単純なのですが、信念として固まっていることも生活に生かされるのです。
ところで、過去の修行時代が、何を教えてくれているかという事を問い直すのです。
人生の目覚めの時が、極真空手入門の時であったことは間違いないのです。
傷のない青春を祭物として、清き魂を維持しながら稽古に全力で打ち込んできたのです。
使い古した心と肉体ではなく、青春の初々しい日々を極真という一つの稽古に捧げたのです。もちろん、友人達が青春を謳歌している時でありましたので、不思議に思われたのも無理なからぬ事でした。
要するに、日々打ち身と捻挫、内出血が全身を覆うという、血で血を重ねる日々の割礼という事でしょう。
腰に帯を締め、稽古着を肌身離さず、旅立ちに向かって、日々急ぐような心境の連続でした。
約束の目標に「旅立て」とせかせられるような感覚さえしたのでした。
地方大会や全日本に毎年出るようになると、完璧に一般の人とは区別されるような心境になるのです。その為の日々ですから、普通の日常生活とは違っていたのでした。
それでも、食事だけは、栄養があるものを食べていたのですから、食べることに関しては強欲だったのかもしれません。
修行の日々は、「永遠の掟」を私自身にノルマとして課していたという事なのでした。
それもこれも、私に命令を下すような「稽古」があったからという事なのです。